四国遍路日記 第2期 4日目 2002年3月10日(日)
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早く眠りについたということが大きいのだが、夜中に起きてしまう。トイレに行き、布団の中で身体を休める。寝て、いつの間にかまた起きて、ということを繰り返したようにも思う。しかし、そのうちかなりザワザワという音が聞こえてきた。バタンバタンという戸の開け閉めの音も頻繁に聞こえてくる。あとは眠ることなく、いつの間にか6時になってしまった。
トイレに行くと、既に他の部屋のバスの団体さん達の部屋は準備万全、いつ出発してもいいですよ、という雰囲気になっていた。そう、このお爺さんお婆さんたちは、朝の4時くらいに目を覚まし、もう既に身支度をしていたようなのであった。これまでの旅のときも、早く起きる人はいたが、40人くらいの団体さんによるこのような一斉の朝の行動がなされるということはもの凄い迫力なのである。
6時半になって、僕はやや眠い顔をして食堂へ朝ご飯を食べに行く。団体さんはとっても元気に朝食を食べている。Mさんも僕と同じように朝方のうるさい状況に参ったようで、眠そうな表情をしている。2人して小声でこの朝の状況の話をして盛り上がる。今、食事をしているこのお爺さんお婆さん(お婆さんがほとんどメインなのだが)の状況というのも凄い。お茶はペットボトルにどんどん入れているし、余った海苔などは集めてもらっていく。昨夜もそうなのだが当然食事のときには、自家製の漬物を取り出し、みんなで元気に食べる。
そうした姿に圧倒されていた。これは全くもって悪口ではなく、こんなふうに元気に歳を取るということはとっても素敵なことだと、純粋に感動したのであった。
この団体さんは食べているときにも、歩き遍路ということで僕とMさんにどんどん声をかけてきてくれた。「若いのに偉いねぇ、大変だねぇ」という感じなのである。団体さんが食堂を去ると、ものすごく静かな場所になった(笑)。
7時ちょっとすぎに宿を出発する。バス団体ツアーもちょうど出発するところで、見送ってから歩き始めた。
この日の日程はかなりきついものとなるので、覚悟して行く。前の日の大日寺の納経所で地図をもらったので、その地図を見ながら歩く。小さな通りを歩いていくのだが、込み入っていてややわかりにくい。途中で道を間違えてしまったとき、「おーい」と大きな声が聞こえてきた。地元の人が道の間違えを教えてくれたのだった。
4日目となって足がかなり痛くなってきた。最初の1時間はなんとか普通に歩いたが、右足の甲の部分がかなり痛い。やや右足を引きずるような形で歩いていった。大きな川を渡ったところで、歩き遍路の人と出会う。コンニチハ、と挨拶を交わす。
6、7キロ歩き、線路を越えたところに無料のお接待所があった。中で休んでいる遍路の人に「休んでいきなよ」と声を掛けられる。ソファーに座りしばらく休むことにする。声を掛けてくれた人は60歳をもっと越えた人だったろうか。もう何度もこの八十八箇所を自転車でまわっているという人だった。かなり道に詳しい人で地図を見ながら、どのように行ったらいいかなどアドバイスを受ける。竹林寺のことを五台山と呼ぶことなども教えてもらう。この先の高知市内のコースはわかり難いだけでなく、コースもいくつかある。僕が桂浜に行きたいと思っているのだというと、そんなにいい場所ではないよ、という答えが返ってきた。このお接待所のことについても話をしてくれる。以前の管理していた人は亡くなってしまい、今の管理している人は東京にいるとのことだった。
机の上にはノートが置かれていて、ここで休んでいった人の感想などが書かれていた。ちらりと見ただけだが、苦しい中を歩いて励まされた、ということが多く書かれてあった。
また、歩き始める。この自転車遍路のおじさんは「次の国分寺まではあと少しだから」と言ってくれたのだが、あと少しという感覚とは全然違ったものでかなり歩くことになる。何度も経験するのだが、この「あと少し」というのが実に長い。場所によっては「数100メートル」なんてところもあるのだが、いくら歩いても着かないこともある。その時の足の状態、気持ちの問題などが大きいのかもしれない。
ようやくこの日の最初の目的地である国分寺に着いた。この日は全部で4つの礼所を回る予定でいるのでとにかく忙しい。お参りをして納経を済ませたところでベンチでしばしの休憩。この場所はとても静けさを味わうことのできるところだった。別に人里離れた山の中にあるわけではない。この建物、石畳、木の緑、いくつものものが調和してこの空間を作りあげているのかもしれない。ゆっくりこの空間の中に身を置いていたかったがそういうわけにもいかない。
この日の宿の予約をする。すんなりとOKの返事だった。これでひと安心なのだが、5時までこの宿に着くにはかなり大変かもしれない。頑張ろうと、覚悟を決める。
国分寺を出てすぐに道を聞くが、よくわからなかった。少し先に国道が見えるのでそこまで歩けばなんとかなるだろうと、けっこう早足で歩く。田畑の中、小川の流れる脇を通るのはけっこう気持ちがよい。広い国道に入り、どんどん歩いて行く。地図を見ながら目印になるものを確認しようとするのだが、よくわからない。どんどん先に進んで行ったのだが、だんだんと自分の歩いている道でいいのか不安になってくる。よく地図を見ると行き過ぎてしまったようだった。 大きな交差点の角に民家があり、車を洗っていた僕と同じような年齢の人に道を尋ねる。「よく聞かれるんですよ」と言って、とても丁寧に教えてくれた。僕の持っている遍路の地図は最も一般的なものである。この場所は完全に外れてしまっている。それでも「よく聞かれる」ということは、僕と同じように間違えて歩いていた人が多いということなのだろう。この人は地図の細かなところまで、ここには幼稚園があって、と教えてくれてとても助かった。
一応行き過ぎてしまったようだったが、あまり距離は変わらずに進んでいるようであった。教えてもらった通りに風景が変わっていく。足は痛い。けれど、なんとか歩かなければ今日の宿には着かない。
目印の幼稚園を通り過ぎ、右へ曲がるときだった。なんだか声を掛けられたよう。僕は先を急ごう急ごうという気になって、なんだかよくわからないでした。よく見ると、曲がり角のところに停まっている車の中のおばあさんが声を掛けていた。「話をしていきなさいよ」といった感じだった。僕が歩き遍路ということでわざわざ道を教えようとしてくれたのだ。何所から来たの?とか話をしながら、このおばあさんはけっこう具体的にこれから先の道を教えてくれる。黄色い建物のところを、とか、トラックの止まっているところで、とか。実は、歩いているときというのは、けっこう頭の中がボーっとなっているのでそんなにちゃんと覚えていられる状態ではない。途中から話はよくわからなかったが、それでもこうやって親切に道を教えてもらえるとは嬉しかった。深く挨拶をして歩き出そうとすると、「ちょっと待って」と言われ、トマトを2個いただいた。小さなトマト。おばあさんの自慢のトマトのようだった。少し歩いたところで食べたのだが、ほのかな甘さで歩いている僕には、最高の美味しさだった。大げさではく、これまでの僕の人生の中で食べてきたものの中でも、確実に上位に入るものだ。
田畑の道から住宅街のようなところ、それから少し山を越える道を歩いて行く。そしてまた国道の大きな通りにでる。善楽寺という表示があってからも着くまではとても時間が掛かった。なんとか善楽寺に到着する。時間が気になり、お参りと納経が終わりしだい、すぐに歩き始める。あとから考えるとこのお寺は不思議な場所だった。入るときには山からの人気の少ないところから入っていった。でも、出るときの正門と言うべきところの前は商店街のような賑やかな通りだった。
もう高知市内に入ったという街の雰囲気だった。正直なところ、こうした大きな街というのは歩きにくい。遍路マークなど道しるべがあまりなかったりしている。あとから考えてもこの高知市内は特にわかりにくかったような気がする。例えば、この高知市内では「竹林寺」という書かれた表示というものがほとんどなかった。もちろん見落としていたのかもしれないが。書かれているのはこの竹林寺のある山の名前、五台山である。しかし、遍路をこれまで歩いてきた感覚からいうと、どうにもピンと来なかった。
地図を見ながら歩き始める。しかし、目印となるものがなかったりよくわからない。遍路マークがあったので、とにかく道を進んで行く。しかし、間違いだったようである。別の道に入り、もう全くわからなくなる。自転車のおばさんに道を聞くが、地図を見て話をしても全くわからなかった。自分の今どの場所に居るのかわからない。この日は時間がない。だんだん不安になってきた。仕方がなく、ある程度戻ることにする。線路沿いにいたので、目印となる駅のあるところまで歩いて行った。2、30分くらいはロスしてしまったのだろうか。なんとか地図に書かれている道を発見し、ひたすら歩く。痛かったはずの足はもう痛くはなくなっていた。
広い通りに入ると、前の方に歩いている遍路の人が2人もいた。とても安心する。1人はかなり年配のおじさんだった。もう1人は若い女性。たぶん、学生のような雰囲気。手には軍手をして、顔にはマスクをしていた。陽が照っているのでこうやって日焼け対策をしているのだろう。抜いたり抜かれたりしながら歩いて行く。
僕と年配のおじさんとで「ビックうどん」といううどん屋さんに入る。時間は1時半くらい。まだお昼を食べていなかったので、何かを食べたかった。少しばかり話をする。この人は10回目の遍路だと言っていた。ただし、それまでの遍路は全て車で行ったもので、今回が初めての歩き遍路だということだった。50代というよりは60代と言った方がいいような人である。宿には泊まらずに寝袋など大きな荷物を持って野宿している。無理をしないでのんびりと歩いて行くのだと言っていた。
僕は「ざるうどん」を注文して食べていた。おじさんに、東京ではあんまり食べないかもしれないが、とうどんの食べ方についての話をされる。僕は頭がふらふらしていて、時間が気になっていたので、よくわからずに頷いてしまっていたが。おじさんの食べていた暖かなキツネうどんは美味しそうだった。汗が出るので僕は汁物は控えたのだが、いつかこの暖かなうどんをゆっくり食べてみたいものだと思った。
先に僕は店を出る。この店には他にも遍路の人がいて、店員さんに道を聞いていた。店員さんは、クリアケースに入ったお手製の地図を用意していて、わかりやすく教えてくれた。
川の脇を通り、浦戸湾を見て、いよいよ五台山へと登る。テレビ塔や公園のあるこの高知市のシンボル的な山の上に竹林寺がある。僕はとても急いでいた。あとで勘違いだったことはわかったのだが、1時間、まったく時間を間違えていた。竹林寺からこの日最後に行く予定の禅師峯寺までは約6キロの距離がある。登り道もあることなどから時間にして考えると、2時間は見ておかなければならない。5時には納経所が閉まってしまうので、この時間までなんとしても辿り着かなければならない。宿はそれからまた遠いのだが、とにかく5時という時間がこの日の自分にとってはもっとも重要だった。実際に竹林寺に着いたのは2時、つまり3時間あったのだが、なぜか僕は2時間しかないんだ、と思い込んでいた。とにかく焦っていたのだろう。疲れて正常な思考ができなくなっていたのかもしれない。竹林寺に着いて時計を見たところでこのことに気づいたのだが、このときにはまだわからず、とにかく必死になって歩いていた。登り道も休むことなく汗を流しながら。
途中に伊達家の墓があった。伊達政宗の子供である。仙台からこの四国の土地に養子となり移り住んでいた。伊達政宗というと仙台という印象が強いかもしれないが、生まれは米沢である。NHKの大河ドラマで見たことを思い出し、通り過ぎる。
どこが竹林寺なのかよくわからなかった。表示もほとんど出ていない様子。不安な気持ちを抱えながらようやく着くことができた。この竹林寺の場所がよくわからなかった、というのは僕だけでなかったようで、まったく道でない道を通って辿り着いた、なんて人もいた。
着いてみると、お店は出ているし、タクシーなども並んでいて、多くの人がお参りをしていた。石段を登り、この竹林寺という場所を味わう。気持ちの面でほんの1、2分のことだったが。納経所に行くと、少し前に一緒に歩いていた若い女性も並んでいた。軽く挨拶を交わす。
この時点で5時まで、まだ3時間もあったことに気がつく。けれど、宿に入る時間を考えるならば、そんなに余裕があるわけではない。急いで次の禅師峯寺へ行かなければならない。まずは道を間違えないために、最初にしっかりと道を聞くことにした。実は道を聞くというのは少しばかり難しいことでもある。お年寄りなどは、この遍路というものをよく知ってお参りなどもしているので、よくわかるのだが、地図を開くと老眼の為によく見えなかったりする。僕としては頭がよく働いていない状態なので、地図の上で聞きたいのだが。
周りを見渡すと、タクシードライバーの人たち数人が話をしていた。その輪に聞きに行く。さすがに、目印となるポイントなど判りやすく教えてくれる。車道ということだけでなく、歩くのであれば、この道でいいんよだ、と遍路道までちゃんど教えてもらえたのはありがたかった。
遍路道の下りをどんどん進んでいく。こうした下り道は汗をかくような辛さはないが、足を挫いたり転んだりする可能性があり、とにかく注意深く歩く必要がある。気持ちの面ではとても疲れる。
なんとか山を降りると、休んでいる遍路の人に声を掛けられる。この人は午前中に休憩所で声を掛けてもらって話をした自転車でまわっている人だった。「あんたのこと何回か見ていたんだよ。足を引きずっていたので」という。確かに午前中は足を引きずって歩いていたのだ。でも、午後になり時間を気にしはじめてからは、足の痛さも感じなくなり普通の状態で歩いていたはずである。このおじさんはここでも親切に道を教えてくれる。川沿いを歩いていくのだが、早めに川を渡って歩いた方が遍路マークが多いから歩きやすいよ、とアドバイスしてくれる。
ちょっと気持ちの余裕がでてきたのかもしれない。まわりの景色を少しばかり楽しみながら歩いていく。道を曲がり、広い車道にでる。さっきのおじさんとは別の若い自転車の遍路の人が軽く挨拶して通り過ぎる。この人とは話はしなかったが、この日何度かお参りのところで顔を見ていた。しっかりとお経を唱え、とても熱心にお参りしていた。
武市半平太の旧家という表示があった。近くに行って見てみたいような気持ちもあったが、先へと急ぐ。
禅師峯寺があると思われる山の見えたところでベンチがあったので、少し休憩を取る。この日はこんなふうに休むことはほとんどなかった。大きな池の脇にある休憩所で、となりのベンチではアベックが何かを食べながらアツク語り合っているようだった。僕は池の景色を1人、ただ見入る。
また歩き始める。あと少しだ。交差点で地元の買い物の帰りであろうおばさんに道を尋ねる。とても親切な人だった。住宅の建つ中、静かなところがこの禅師峯寺へと行く入口だった。狭い遍路道を登りだす。1日の終わりのこうした登りはとても辛い。それになんとかこの日の予定をクリアできそうだという気持ちの余裕もできたからなのか、足の疲れを感じるようになってきた。それだけに、禅師峯寺の門が見えたときには嬉しかった。
そんなに大きなお寺ではなかったのだが、石段があり、とてもきれいなところだった。なによりも、ここは海が見下ろせる。お参りと納経を済ませた僕はこの見晴らしのよいベンチに座り、しばらく休んでいた。
宿に行こうとこの寺を出ようとしたところで、お昼を一緒に食べた歩き遍路の人と顔を会わせる。軽く声を交わして歩き出す。この遍路の旅では、あくまでも自分のペースで歩き、旅をする。その中で話のできるタイミングにあった人とはじっくりと会話を交わすこともある。けれど、こんなふうにひと言だけの軽い挨拶で通り過ぎることもある。この気を使わない気軽さがいい。別に相手をしないということではない。自然に出会い、自然に別れる。話のできるときがあれば、話をする。
ここから宿までは約4.5キロほどの道のりがある。だいたい1時間ほどで着く予定。海沿いの町の、細い通りを歩いていく。地図に書かれている目印の水口商店、浜口商店といったお店を確認しながら歩く。都会ではあまり見ることのできない、小さなお店だったりする。通りには古い建物もいくつかあった。学校の脇を通って、小さなお寺のあるところにタクシーが止まっていた。よく見ると運転手さんは、先ほどの竹林寺で道を教えてもらった人だった。珍しく女性の運転手だったのですぐにわかった。
5時半にようやくこの日の宿である旅館新橋屋さんに着いた。「明るいうちに着けてよかったですね」と女将さんは言ってくれた。小さな民宿だった。この近くには4件ほど宿が集まっていたが、そこがどのような宿なのか、着いてみて初めてわかる。この女将さんはほんとうにいい人だった。誰もが、おかあさんと呼びたくなるような人だった。
2階の部屋まで案内してくれるおかあさんは「日当たりが悪くて申し訳ないんですが」と言っていた。部屋にはなんとコタツがあった。さっそくお風呂に入って疲れを癒す。この日はほんとうに疲れてしまっていた。家庭にあるのと同じような小さなお風呂だったけど、とても気持ちがよかった。
部屋でちょっと休んだところで食堂に夕食を食べに。食堂とは言っても、少し広めの畳の部屋である。全部で8人分くらいの食事が用意されていただろうか。遍路の人は僕1人だった。他の客は仕事で泊まっているという雰囲気。一番端の席で静かに食事を楽しんだ。ここの食事は美味しかった。あたたかな卵のお吸い物はもう一度食べてみたいと今も思う。
部屋に戻る前にちょっと外に飲み物を買いに行った。疲れているからだろう、甘いジュースのような飲み物が欲しくなる。歩いているときには、咽喉に残るようなものは飲みたくない。飲みたくてもそれは後から辛くなったりする。いつも爽健美茶を飲んでいたのだけど、1回で飲む量も我慢して少しずつにしていた。これらか歩く必要のない宿では、好きなものを好きなだけ飲むことが可能なのだ。
自動販売機を彷徨い、夜の暗い高知の街を歩く。白衣の遍路の人を見かける。2人で歩いていて、これから宿に入るところのようだった。
部屋ではコタツに入ってテレビを見ていた。眺めているといった方が正確だったかもしれない。次の日の宿の予約もこのときに行った。しばらくしたところで、おかあさんが宿帳を持って部屋に来る。食事のときに「あとから行きますから」と言われていたのだった。ちなみに、宿帳を書くということはこの旅ではあまりなかった。ビジネスホテルなどでは最初のチェックインの時点で書くことはあるけれど、民宿の場合は何も書かなかったりということもよくある。部屋まで宿帳を持ってきてくれて書いたというのは、前回の旅も含めて初めてだった。でも、これがこの宿の魅力なのだろうと思う。
この時に、おかあさんと話をする。宿帳に東京の住所を書いたことにより、東京の話になるが、僕は「でも、出身は山形なんですよ」と言うと、びっくりして答えてくれる。なんでも、とても可愛がっていた姪っ子が山形の人と結婚して今東京に住んでいるのだという。この話で急に距離が縮まったようだった。
おかあさんは、この宿に泊まった遍路の人についての話をしてくれた。僕の住所に近かった、定年退職後に歩き遍路に来て泊まった人の話は、とても想い入れの強いものだった。その人は、新しい靴で事前にトレーニングしていたにもかかわらず、この宿の直前で足が痛くどうしようもなくなってしまったという。もう旅を断念しようかとさえ思ったらしい。とりあえず、ここまで来たということで予約していたこの旅館新橋屋に泊まることだけはしようと思った。でも、歩くことは出来ない。タクシーを使おうとしたが、どのように宿まで行ったらいいかわからず、宿に電話をした。おかあさんは、「バス停のところに立っているように」とアドバイスをする。バスが来ればバスに乗ればいいし、来なかったなら通りかかった人が車に乗せてくれますよ、というのである。その電話の後、15分くらいで宿まで着いてしまう。たまたま通りかかった人がこのおかあさんの知り合いで、「あれ、まあ(笑)」と笑い話のような状態になったのだ。 その歩き遍路の人はこの宿でひと晩ゆっくり休んで、翌日も朝のうちゆっくりしていたのだが、足がよくなり、旅を最後まで続けることになった。「お大師様は必ず助けてくれるから」とおかあさんは僕にやさしく語ってくれた。この歩き遍路の人は、2回目の旅のときにもこの宿に泊まってくれた、ということだった。
コタツを脇にずらして、布団を敷いてくれる。寒いかもしれないからと、掛け布団を余分に用意してくれた。
とても嬉しい気持ちで眠りについた。
◎ 第2期 4日目:約34.5キロ / 2002年3月10日(日)
◆ 第29番国分寺
◆ 第30番善楽寺
◆ 第31番竹林寺
◆ 第32番禅師峯寺
◇ 昼食:ビックうどん ざるうどん525円
◇ 宿:旅館新橋屋
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