四国遍路日記 第2期 6日目 2002年3月12日(火)
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僕の泊まった離れには2部屋があった。もうひと部屋には素泊まりの歩き遍路の人が泊まっているということだった。廊下の向かい側なのでその気配はわかる。昨夜は携帯電話で話す声なども聞こえてきていた。その彼は僕が朝食へ向った6時半にはもう出発したようだった。早い歩き遍路はひたすら早い。
美味しい朝ご飯を食べ、宿代を支払う。民宿はこのように朝払うところの方が多い。女将さんに洗濯物を干してもらったお礼を言おうと思ったら、旦那さんしかいないようだった。部屋に戻り、準備をして宿を出る。
宿に泊まった他の人は、これから第37番の岩本寺へ向って歩いていくのだろう。僕は、他の人がもうお参りを済ませた青龍寺にこれから向う。この日も天気がよかった。けれどもまだ朝の7時は寒い。まだ人気も少ない宇佐大橋を歩いて行く。犬をつれた散歩の人とすれ違ったりする。かなり長い橋である。渡り終えても、すぐ海沿いの道である。小さな船を見ながら、静かに歩いて行く。
途中いくつかの宿の脇を通り、古い家並みの脇道を通る。すぐ近くかと思っていたのだが、かなりの距離があった。旅は6日目となり疲れてきたのかもしれない。けれど、この日歩く距離は30キロもない。かなりゆっくりと歩いても十分にこの日の宿には着けるはずである。畑の中、海辺の景色から山の景色へと変わり、この青龍寺に着いた。
ひっそりとした場所だった。石段を登り本堂へと。朝という時間だからなのかもしれない。他の場所とは違った静けさだった。石段を降りるときには、団体のけっこう年配の人達とすれ違う。軽くコンニチハと挨拶を交わす。団体のバスで遍路をする人にとっても、こうしたきつい石段は大変だろう。石段を降りたところにある納経所には、この団体さんの係の人が沢山の納経帳などを持ち込んでいた。後ろで少し待っていたが、時間が掛かるようだったのでトイレに行く。何人もの人が入れる昔風システムのトイレだった。山の中のお寺などのトイレの多くは水洗ではない。僕の子供の頃はこうしたトイレは普通だった。
少しのんびりして、納経を済ませ、次へと気持ちを高ぶらせる。寺から出ようとしたところで車に乗り込もうとしていた地元のおばさんに声を掛けられる。どこから来たの、とかいくつかのやりとりをする。そこで、僕はこの先の道について聞いてみた。このままこっちの道を行くのもきれいですよ、アップダウンが激しいけど、だいじょうぶですよ、と言う。宿からこの青龍寺まで歩いてくるときには、この道を戻ることを考えていた。ただ、この道は思ったよりも遠かった。正直なところ同じ景色は見たくない。ちょっとくらい距離が延びたとしても、別の景色で歩いた方が楽しく歩けるような気がした。ここで、これからの道を変更する。横波スカイラインという、名前の通り車専用といっていいような見晴らしのよさそうなルートを歩くことにした。
車道を歩くわけなので、間違うということはない。ある意味で気楽である。近くに山があるが、上の方には建物が見える。まさかこんな上まで歩くことはないと思っていたのだが、この道はこんな上まで歩く道だった。この建物は「国民宿舎土佐」というところだった。地図から見るとこんなに高いところにあるとはわからなかった。1日の最後にこういう登りがあるとかなり辛いかもしれない。でもこの大きな宿は最近かなり評判のいいところのようだった。
このスカイラインは、車はそんなに多くは通らない。静かな景色を、やや急な登り道をただただ歩く。左手に海が見えるようになってきた。あちこちが入り江になっていたりしている。ほんの少しの砂浜が見える。立ち止まり、しばし写真を撮ったりする。道は山側になり、また海は見えなくなる。そして、また広大な景色が目に飛び込んでくる。何度もこうしたことを繰り返す。
バスが通り過ぎる。「明徳義塾」と書かれているスクールバスである。そうなのだ。この土地には三都州アレサンドロ、朝青龍らが学んだ明徳義塾という学校がある。昨夜泊まった宿の近くにも校舎があった。そして、この横波スカイラインの山の中にも校舎がある。いくつかの学部があるみたいだ。
かなり疲れてきた。休憩するときには道路に座り込む。しかし、この日はお昼頃まで歩きさえすれば、あとは楽になるはず。時間的にもかなり余る計算になるので、休憩を多くとっても問題はない。
あまり人気のないこの道にも、どうやら小さな港町があるようだ。民宿という看板もある。地図でこの位置を確認する。歩き遍路の人は泊まることはないだろう、と思っていたのだがこの民宿は実は辰濃和男さんの『四国遍路』(岩波新書)の中で紹介されていたところだった。
ひたすら歩き、ようやく右手の方に浦ノ内湾が見えてきた。海というよりも静かな湖のようにも感じられる。
左手に太平洋は見えなくなる。今度は浦ノ内湾沿いを歩くことになる。海上レストランというものが見えてくる。岸の脇に船というか、建物が浮いている。大きなレストランになっているのである。ひとつだけでなく、全部で4つくらいあったような気がする。この先、あまり食べるところもないかもしれないと思う、少し早いが昼食をとることにした。レストランといっても、表の看板にメニューが載っているわけでもなく、やや入るのには不安だったりしていて、3つ目くらいの「海上荘」というところに入った。100人以上も入れるようなところなのだが、客は誰もいなかった。まさに団体さんを対象にしたようなところのよう。テーブル席の上には鉄板が置かれていて、海のものをそのまま焼いて食べるのがここのウリなのかもしれない。
時計を見ると11時半だった。お腹は減っているが、そんなにいっぱい食べられるわけではない。メニューを見て「貝ごはん」を注文する。店員のおばあさんは「30分くらい時間がかかりますが」という。他にこうした軽めの食べ物はないようだった。まあちょっと長めの休憩時間と考えればいいかな、と思う。それに炊きたての貝ごはんというのを考えると、とてもよい感じがするではないか。
暖かなお茶が美味しかった。窓際の席に座ったので、すぐ近くに水面が見える。ときどき魚が跳ねているのも目に入ってくる。貝ごはんは30分も待つことなく、10分ほどで出てくる。早く出てきて喜んでいいのか、悲しんでいいのか。でも海の香がしてとても美味しかった。お茶を何倍も飲んでしまう。ここのお茶は本当に美味しかった。
30分ほどでこの店を出たのだが、他に客は1人もいなかった。お勘定を払うときに、みかんのお接待を受ける。船から陸地へ渡ったところで、店のおばさんに「これがないと……」と声を掛けられる。そう、金剛杖を忘れてしまっていたのだった。
しばらく歩き、船の泊まっている雰囲気のよいところで少し休み、また歩く。民家もちらほらと見えるようになってきた。道路がやや高くなったあたり、下の方からおばあさんが声を掛けてくる。実はこのとき何を言っているのかよく聞こえなかった。指を差して、この道路を下に降りて、こっちに来るようにと言っているようだ。お接待してくれるということなのだろうか。昼休みをとったばかりのような時間だったのだが、声を掛けてくれる人を断ってはいけない。おばあさんのところに行ってみる。すぐそこだからと自分の家を指す。そして休んでいきないさいと。歩きながら、「辰濃さんも来たんだよ」という。最初はよくわからなかったのだが、『四国遍路』という本を書いている辰濃和男さんのことだった。82ページに私のことも書かれているんだよ、と嬉しそうに言っていた。
庭から入り、縁側のところに腰を掛ける。甘く暖かな飲みもの、お菓子、文旦を出してくれる。辰野さんだけでなく、多くの歩き遍路の人の多くがここで休んでいったようだった。おばあさんは、そうしたいろいろの人のことを話してくれた。まだ20代前半の女性についての話はとても熱心だった。北海道に住む彼女は就職試験に全て落ちて、この遍路の旅をはじめたという。そして、歩きながら、人と接し、お接待を受け、自分の欠点となっていたものが何なのかよくかわったと。その両親も、娘が遍路をしたことをとても喜んでいたんだよ、とおばあさんは真っ直ぐな目で語ってくれた。何人かの手紙も見せてくれた。四国という土地に対して、おばあさんに対しての感謝の気持ちのこもったものだった。
あばあさん自身の話もいくらか聞かせてもらった。昔は東京にも住んで看護婦をやっていたという。この土地で住むことにも大変なことはあるんだよ、とも言っていた。その理由が僕の田舎の方と同じようなことだったので、それはそれで親近感が沸いてしまう。
辰野さんの2度目の遍路のときには、わざわざこの場所まで来てくれたと言っていた。この横波スカイラインというルートは、あまり歩き遍路の人が通らないところだとばかり思っていたのだが、そうではなかった。歩く人がいて、あたたかく迎えてくれる人もいた。
おばあさんの家の前の景色は大きく変わっていた。すぐ近くの海のところが、国体のボートの会場になるのだというころだった。
結局のところ文旦をまるまる1個食べてしまった。ポカリスェット、チョコレート、飴、お菓子、文旦を戴き、また歩くことにする。
おばあさんの余韻に浸りながら歩く。別ルートから合流した道に入り、あとは真っ直ぐ歩き須崎市の宿に入るだけである。一本道をずっと歩いて行く。バイクで旅をしている人達が途中で話をしていた。とても楽しそうだった。途中に遍路用の案内版があった。持っていってください、と書かれた須崎市内の地図があった。とてもありがたい。地図には目印だけでなく、宿の電話番号などまでも書かれている。この須崎市には礼所はないのだが、それでもこのように遍路の人達を迎えてくれるというのは、ほんとうに嬉しいことだ。
なにやら大きな工場の脇を通る。正直なところ、かなり違和感があった。その工場を過ぎると、大きな港が見えた。地図の上ではどこが海なのかわからなかったりする。港にしても、小さな漁港もあれば、大きなところだったりもする。港というもの自体、自然の入り江の中にあるので、そんなに港っぽいわけでもないのだが。かなり大きな船が見えた。
港を見ながら、またしばらく休憩を取る。また歩き、宿の近くまで来るが、まだ3時半くらいだった。近くの公園で時間をつぶすことにする。翌日の宿の予約の電話を入れる。宿坊の場合、泊まれないこともあるようだが、問題はなかった。久しぶりに文庫本を読む。藤沢周平の短編は今回の旅ではあまり読むことはなかった。これまで時間的にもあまり余裕がなかった。
4時になって宿へ入る。民宿鳥越というところなのだが、ビジネスホテルという名前になっている。どうやら、ビジネスホテルと民宿と2つがあって、2つの建物の間にレストランがあるようだった。最初ビジネスホテルの受付に入るのだが、それから民宿の方へと移動。部屋はそれぞれ野菜の名前になっているようだった。道路沿いのところなので、車の音がやや煩かった。しばらく畳の上で横になる。このまま眠ってしまってはいけないのだが、ぼーっとしていた。電話があり、お風呂に入りに行く。2人くらい入れるような大きさのお風呂だった。のんびりとお湯につかる。部屋に戻り、6時にはすぐに夕食。レストランのところに食べにいく。
この時点でようやくわかってきたのだが、この民宿に泊まる客は僕1人だった。2階のフロア−には全部で10くらいの部屋があったのだが。夕食も1人静かに、すぐに食べ終わってしまう。部屋に戻っても正直なところあまり落ち着けない雰囲気だった。押入れを開け、布団を敷く。この宿はあちこちにうるさいくらいに注意書きがあって、かなりうんざりしていたのだが、押入れの壁にもあったのにはさすがにびっくりしてしまった。なんだか、気分がすぐれなくて、翌日の朝食をキャンセルすることにした。支払いを済ませ、朝早めに出て行くことを告げる。前の宿のところで、素泊まりの人が6時前に宿を出て行ったようだったので、僕もそれを真似ることにしたのだ。お腹が空いたら、途中で朝食を取るのも楽しいだろう。
この日はもう何もすることがないのだが、このまま眠ってしまうと夜中に起きて困ったことになってしまう。僕1人しかいない宿の真夜中というのも正直なところ怖いのである(笑)。僕はもともとめったに旅というか、外に泊まることはなかった。お化けが出たらどうしよう、という気持ちもなくなない。ただ、遍路の旅に関しては、なんといったらいいのだろうか。自分が守られている、という気持ちはあった。金剛杖があれば怖くはないのだが、それでもこの日の夜はやや怖かった(笑)。
テレビを付ける。100円を入れなければ見ることができないというテレビだった。特に見ようという目的もないままに、映像と音を流す。そして、布団の上に横になり、本を読んだ。藤沢周平の『たそがれ清衛』を最後まで読んでしまい、眠りについた。朝まで眠り通したかったのだが、夜中にトイレに起きてしまった。別に何もなかったけど。
◎ 第2期 6日目:約27.3キロ / 2002年3月12日(火)
◆ 第36番 青龍寺
◇ 昼食:黒潮ライン浮かぶレスト海上荘
◇ 宿:民宿鳥越 5250円(夕食付)
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