四国遍路日記 第2期 5日目 2002年3月11日(月)
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6時に起き、6時半に朝食を食べる。この宿の朝食は基本的には7時からということだったのだが、お願いしてこの時間にしてもらった。この日もかなりの距離を歩く予定で、しかも脇道に逸れて桂浜に行きたいと思ったので、30分というのは貴重な時間だった。桂浜には坂本龍馬の銅像がある。別に銅像を見たいと思ったわけでもないが、龍馬の眺めた太平洋の景色というものを僕も見て感じてみたかった。おかあさんに、桂浜までの行く道を尋ねる。自分も歩いたことのあるところだと、教えてくれる。
宿を出るときには、玄関のところで膝をついて見送ってくれた。
まだ7時だというのに、車はどんどん走っている。次の雪蹊寺までは4.5キロくらいになるのだが、2通りの道がある。ひとつは本来のへんろ道であり、渡し舟を使う。こちらの方が断然早いのだが、ずっと遠回りになる浦戸大橋を使っての桂浜経由の道を歩く。
地図で見て、この浦戸大橋からの眺めは素晴らしいものだと思っていた。海と浦戸湾との間にかかる大きな橋なのである。そこを越えると桂浜。しかし、この橋は歩くものにとっては、とても怖い場所だった。アーチ型の大きな橋で、実は有料道路になっている。その脇に歩道があり歩くわけだが、この歩道がとても狭いのだった。肩幅よりもう少し広いか、という感じ。人ひとりがやっと歩くだけのスペースだった。 途中で人とすれ違ったことがあったが、車はすぐ脇をどんどん猛スピードで走っていて、僕にはかなりの恐怖だった。でも、そのすれ違った人は慣れているのか平気で車道に下りて歩いていた。交通量がとても多く、おまけにアーチになっていて、ジェットコースターに乗っているような怖さだった。真ん中のあたりにはやや広い休憩所のようなスペースがあり、そこでようやく周りの景色を見ることができた。かなり高いところから見る、浦戸湾の眺めはとても素晴らしかった。でも、再び歩きはじめると、怖くて足元しか見ることはできなくなったが。
昨日の宿を決めるときに、実はもう少し無理をしてこの桂浜に宿と取ろうかとも思っていた。こちらの方が宿がいくつもあり都合がいいかと思ったのだ。しかし、暗い夜にこの橋を渡ることは、まったく無謀なことだっただろう。
橋を渡り終えて、桂浜に行きたいわけだがどこをどう歩いたらいいのかよくわからない。基本的に自動車専用道路になっているので、普通の道路ではないのである。道路の反対側に渡り、ハイキング用の道を発見して歩き出す。時間が気になってかなり早歩きである。すぐに銅像に着くのかと思ったらまったく甘い考えでかなり迷いながら、時間がかかった。 途中の屋根のある休憩所のところにはテントが張られてあった。野宿の人なのだろう。少ししたところでトイレに入る。だいたいにおいて、男性の個室のトイレには落書きというものがされている。正直なところ、あまり上品な落書きというものはないのが普通である。しかし、このトイレの落書きは全くトイレの落書きの概念を打ち破るものだった。「ついにやった」といった桂浜に来た喜び、また来たいという願い、「断酒をする」といった決意などが書かれていた。
公園となっている歩道を歩いて、「坂本龍馬記念館」というところまで来る。こんなところがあったとは全く知らなかった。中を見てみたいような気もするがこの日は全く時間がない。この近くに銅像があるかと思ったのに、まだない。その先をしばらく歩いてようやく坂本龍馬の銅像のところまで辿り着いた。砂浜のところに立っているのかと思っていたのだが、少し離れたちょっと高台のところ。大きさは中岡慎太郎の銅像と同じくらいだろうか。正確にはわからないが、なんだか同じように見えた。 まだ早い時間なのに写真を撮っている人もいた。僕も写真を撮った。ただ、近くで下から見上げても何が何だかわからない。離れて撮ると遠くなってしまう。写真を撮るというのは実に難しい。桂浜、と言われる砂浜に下りてしばし海を眺める。でも考えてみると、この場所は高知市内、つまりは港にも近い場所。景色には近代的なものが何も無いわけはなく、ごちゃごちゃしているな、という印象の方が強かった。司馬遼太郎はこの景色についてとても印象的な文章を書いていたが、室戸岬の景色の方が雄大で、より太平洋を感じられるものだったな、というのが僕の正直な感想だった。
急いで歩き出す。予定ではほんのちょっとの寄り道だったのだ。次に行くにしても道がわからない。近くに道路は見えるが、かなり遠回りしてしまいそうな感じもする。来た道を戻ることにする。午前中は足もやや軽いのだが、とにかく急いでどんどん歩く。先ほどの道まで来たのはいいが、それから先がまたまたよくわからない。仕方なく車道をどんどん歩いていく。海沿いの道に出る。どうやら、一番遠回りになるコースを歩いてしまったようだ。
次の第33番雪蹊寺に行くには、もう少し陸側の方に入らなければならない。地図を見て、目印になる宿といった建物を確認しながら道を右へと曲がる。しかし、ここでいいのかよくわからない。とにかく時間がないのでどんどん歩いていく。そのうちに、地図を見ても自分がどこにいるのか全くわからなくなってしまった。ここで道を聞く。昨日から何回も聞いているような気がする。年配のおじさんはやや老眼のようだったが、とてもわかりやすく教えてくれた。目印となる建物とかがはっきりしている。安心して前へ進むことができた。そんなに逸れて歩いていたわけではないようだった。病院の交差点を曲がり、少し行ったところに雪蹊寺はあった。目立たない、小さな、静かなところだった。まわりは住宅地というところなのに。
いつものようにお参りをすませ、納経所へ。前に1人しかいないのに、全然進まない。団体さんのガイドの人のようでかなりの数がある。いや、数というだけでなく、この納経の係りの人が話をしながらで、手が動いていなかった。まあ、こういうところもあるのだけど。
この雪蹊寺を出て少し歩くと風景はがらりと変わる。広く遠くまで見渡せる自然の風景なのだが、やたらと工事をしているようだった。工事のところには「よさこい国体」という文字があったりした。実はここから種間寺までの道のりもまた遠かった。6.5キロ。この数字を見るとそんなんでもないのだが。途中、高校生の運動部だろうか、走っている人たちとすれ違う。まわりの景色は田畑ばかりだったりもする。案内板があり、狭い道へと曲がる。自動車とはまた別の道になるようだ。ただ、なんだか不安になってすれ違ったおばさんに聞いてみる。間違いはない。よくお参りしているような雰囲気。もうすぐなのだろうと思うがこれからがまた遠かった。「どこから来たの?」などと、やさしく話してもらってとてもよかった。
一応道なりに歩いていくのだが、道路の工事が行われていたり、なんだかわかりにくかった。「お足を止めてすみませんが」と地元のおばさんが声を掛けてくれた。お接待させてください、という。財布から500円玉を取り、僕に渡して再び、「お足を止めてしまってすみませんねぇ」と言ってくれた。僕は前回の旅も含めて、現金でお接待を受けたのは初めてだったので少し緊張してしまった。現金でのお接待の話は本で読んでときに書かれていたので知ってはいた。少し抵抗があるかな、と思っていたのだが、このときはすんなりとそのお接待を受け取ることができた。お接待の意味がどのようなものか詳しくはわからないが、僕個人がお金をもらう、というよりも、お接待してくれた人の代わりに僕がお参りをしてお賽銭を入れる、みたいなことでもあるかもしれない。こんな風に考えるようになっていた。
やっと、お寺のような建物が見えてきた。バスが中に入っていくところが見えたりする。この種間寺はとてものどかな、澄んだおいしい空気のある場所だった。まずは、先ほどお接待してもらった500円を出してロウソクを買った。前回の旅からのひと箱のロウソクがもう無くなってしまったのだ。ひとつの礼所で、本堂と大師堂と、2本たてる。無くなるというと小銭もなくなってきた。お賽銭を入れるときに、1円玉や5円玉を入れていたのだが、ポケットの小銭を漁っても、10円玉すらもなかった。ここでは本堂で100円もお賽銭を入れてしまった。でも、お接待していただいたお金がこのようにまわるのである。納経所の係りの人は「歩きですか?」と言って、歩きの道が車とは違うことを教えてくれた。次の清瀧寺への表示が出ているのだが、それは車のためのものなので間違えないで、とのこと。疲れているし、歩くのは嫌になることもあるのだけど、こうしたちょっとしたひと言のようなもので、がんばって歩こうという気持ちになる。
静かな通りをひたすら歩く。仁淀川大橋という長い長い橋を渡る。渡り始めたのに川が見えないという不思議な橋だった。渡り終えてからは、土佐市内の賑やかな景色になる。この日の予定はできれば、第36番の青龍寺まで行きたいと思っていた。ただ、行けても行けなくてもどちらでも大丈夫なように宿は、その手前2.5キロほどのところに取っている。青龍寺は行く道と戻る道が同じになるからだ(予定を変更して別の道にした)。 この日の午前中の目標としてはお昼くらいには清瀧寺まで行きたいと思っていた。ところがもう12時を過ぎてしまっている。おまけに地図を見ても、今自分がどの辺にいるのかわからない。なによりも疲れて腹が減った、ということでお昼ご飯を食べることにした。大きな鯨があったり、ちょっとした遊園地のようなものがあるところに「黒潮うどん」というお店がありそこに入る。古い民家のようなイメージになるのだろうか、天井も高く、よい雰囲気のお店だった。客は少なかったが。ざるうどんとミニ牛丼のセットを注文する。ざるうどんは時間が掛かりますが、ということだったが、ちょっとした僕の休憩時間でもあるわけなのでそれはそれでよいだろうとお願いする。けっこう汗をかいているのでどうの暖かな汁ものは食べる気にはなれない。後から来た少年とも言える客は僕の向かいの席に座り、大盛のきつねうどんだったかを注文する。けっこうすぐに来てさっそく食べている。それにしても暖かなうどんも美味しそうだった。やっと、僕のざるうどんとミニ牛丼も来たのだが、確かに待っただけのことはある、うどんはコシの強さがあり美味しかった。かなりお腹がいっぱいになった。ひと眠りしたいところだがそういうわけにもいかない。お店を出て歩き始めることにする。支払いのときには、道を確認する。道を聞くことは全くのいつものことになってしまったようだ。
歩いても歩いても、地図に書かれている目印となる建物は見えない。これは僕の地図の見方が間違っていたようだ。広い車道をずっと歩いていたのだが、地図に書かれていた道はその脇にある小さな商店街のような道だった。だんだん不安になってきたところに警察署があったので、その入口にいた警察官に声を掛け、清瀧寺までの道を聞く。遠回りをしたというわけではなかったようだ。目印となる曲がり角などをけっこう先のところまで教えてくれる。僕は確認すると、かなりムッとしたような態度だった。正直に言って僕だけでなく歩き遍路の人というのは疲れていて頭がうまく働かない。ひとつふたつ先のことはわかっても、三つ以上先に何があるかと言われてもよくわからないのである。それにこの警察官は歩いたらここから1時間は掛かるよ、となんだかとても雰囲気が悪かった。でも僕はこのあとかなり急いで歩き30分か40分だったかで清瀧寺まで着いたのだが。
ごちゃごちゃした道を通り過ぎ、大きな国道を渡り、清瀧寺のある山が目の前のところまで来た。途中で家の外で仕事をしていたおじさんに、道を聞く、とても親切に教えてくれた。農道のようなところを歩いて、やっと登り道へと入る。少し行くと、下りて来る遍路の人とすれ違った。その人は僕を知っているらしく「遅いねぇ」と言っていた。かなり急な道になってきた。汗もかなり流れてきた。でも、急いで歩かなければという気持ちが強く、気合は入っている。遍路の人が道に座り込んで休んでいた。「こっちが遍路道で近いですよ」と教えてくれる。遍路道を急ぎ足でほとんど休むことなく一気に登っていくと清瀧寺への石段が見えてきた。この石段はけっこう長いところだったのだが、下から見るとそのまわりの景色とマッチしてとてもきれいだった。
清瀧寺について時間を見ると1時半。お昼を食べてから信じられないような時間でここまで歩いたようだ。山の上にあるために遠くまで見渡せて、とても気持ちがいい。海は見えなかった。でもこの日はこのあと海辺まで歩くのである。のんびりとしてとてもいい雰囲気。家族でお参りに来た人は、テーブルになっている休憩所で文旦というみかんを食べていた。
この日は青龍寺に行くのはあきらめることにする。それでも、翌日はそんなに大変な距離になるわけではない。ここから宿まではあと12キロほど。途中、かなり山の中の道路を歩くようなのだが、そこまで道を間違えずに行けば、あとは問題はない。
来た道をそのまま下っていく。少しは余裕も出てきたのかもしれない。まわりの景色を楽しんだりもできてきた。地元の農家のおばさんだろうか、通り過ぎようとしたところに声を掛けてきて、みかんのお接待をしてくれた。「咽喉が渇いたときにでも」ととてもやさしい声だった。
街の中の商店街に入る。旅館などがあり、地図に出ていた道であることがやっとわかった。その角を曲がりまたひたすら歩く。3時に案内柱のあるところまで来た。あと宿まで6キロほどなので、5時までには十分着くだろう。ちゃんとした車道なのだが、そんなに車は多くは通らない。広くとられた歩道を黙々と歩く。この日の最後の難関というべき塚地トンネルという長いトンネルを通る。長い長いトンネルだった。そこから少し歩くともう海だった。海沿いを歩く。港になっている。道路から港に降り、小さな船の近くでしばらく休憩をとる。そして、ゆっくりと宿までの道を楽しむ。
宇佐大橋というところを横目で見ながら、しばらく歩いたところに、この日の宿の汐浜荘はあった。時間はほぼ5時。玄関で名前を言う。しかし、話が通じない。宿の親父さんが女将さんに確認を取ったりのやり取りが何度かあった。そして女将さんが出てきて僕を部屋に案内してくれた。部屋は一度玄関を出た離れにあった。ここは夫婦2人でやっている、ほんとのこじんまりとした民宿だった。あとで女将さんはとても申し訳なさそうに僕に謝ってくれた。電話をもらったときに、僕の予約について書くのを忘れてしまったらしい。でも、ちゃんと部屋はあり、食事もあり、何の問題もなかった。
実は遍路の旅をはじめて、前回を含めこうしたことは今回で3度目のことになった。僕もトラブルには動じなくなってきていた。でも、この宿は気持ちのこもった雰囲気でとてもよかった。
部屋で休んでいると、お風呂にどうぞという知らせがあり、さっそくお湯につかり疲れを癒す。ちょっと大きめの家庭用のお風呂が2つあるので、ゆったりとできた。部屋に戻ってから、洗濯をしようとまた母屋へと戻る。ここには洗濯機が2台あった。こういうことも歩き遍路の者には嬉しいのだ。洗濯機のことを聞いたときには別にしなくていいや、と思ったが次に泊まるところに洗濯機があるとは限らないので、できるときにやることにした。部屋で翌日の宿の予約をする。考えてみると、あと2日歩いて今回の2度目の旅は終わることになる。
そして6時に夕食の準備ができたという知らせがあり、再び母屋へ。食堂というか、畳の広間には5人ほどがもう食事をとっていた。いろいろなおかずが並び、とても豪華。僕にとっての、この遍路の旅の楽しみというのは、間違いなく宿での食事なのである。
この場の人はみんな黙々と食べていたのだが、食べ終わりの頃に隣の夫婦が声を発して、みんな話をすることになった。この夫婦はバスなど交通手段を使ってまわっているのだという。東京からだということだった。その向こうに座っていた20代と思われる男性2人組も、バスなどを使ってということだった。この2人組みは会ったことがあった。最初の日に徳島からのJRでの途中の確か日和佐のあたりで、乗り込んで降りたということがあった。あと、途中のどこかでもすれ違ったかもしれなかった。かなり大きなリックを持っていたので、歩きだと思っていたが、そうではなかった。3月までこの旅を終えなければならないのでバスなども使うことにした、と言っていたのだが、僕とあまり進行のスピードが変わらないような。 この旅を終えて帰るときに思ったのだが、この四国では交通機関がそんなに充実しているわけではない。鉄道にしても、バスにしても、1時間に1本あればいいほうかもしれない。時間によっては、もっと時間が開くことにもなる。1時間あれば、かなりの距離を歩くこともできるわけで、実はそんなに時間の短縮になることでもないのかもしれない。
もう1人、僕の左隣に座っていた男性は歩き遍路の人だった。このときはあまり話をしなかったが、この彼とはこの翌々日の宿で一緒になることになる。
満腹になり、洗濯機のところに行くと無くなっていた。もしやと思い部屋に戻ると、僕の洗濯物がきれいに干されていた。まあ、この歳になって自分のパンツを他の人に干してもらうというのはとても恥ずかしかった。でも、頭にきたとかそういうことではもちろんない。
ちゃんと布団も敷かれていて、あとは眠るだけ。早めに眠りについた。
◎ 第2期 5日目:約33.7キロ / 2002年3月11日(月)
◆ 第33番 雪蹊寺
◆ 第34番 種間寺
◆ 第35番 清瀧寺
◇ 昼食:黒潮うどん ざるうどん+ミニ牛丼セット 892円
◇ 宿:汐浜荘 6000円(2食付)
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