四国遍路日記 第5期 7日目 2004年6月16日(水)
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朝は6時頃に起きて準備をする。6時半の朝食に、少し早めに1階の食堂に下りる。もう用意は出来ていた。昨日とは違う仲居さんだった。ちゃんとご飯は2膳食べる。やっぱり宿でこうやって朝食を食べるのは嬉しい。1日の始まりが明確になるというのだろうか。
料金を支払うときに、「これをどうぞ」とお昼のおにぎりをいただいた。遍路宿という雰囲気でもない旅館だったので、ちょっとびっくり。それだけに嬉しいものだった。
宿を出るときに仲居さんとちょっと話をする。「歩いて大変でしょう。歩くと何かあるのですか?」と聞かれる。この人は車で八十八ヶ所をまわったときがあると言っていた。まあ、歩いたからといって何かもらえるわけではない。地元のおばさんに両手を握られたことはあったが、若い女の子に抱きつかれるなんてことはない。この日も暑くなりそうだし、どう考えても辛いだけのような気もする。いろいろ考えてしまったのだが、「でも、歩くのは楽しいですよ」と返事をして宿を出た。
残り22.6キロ。霊山寺までのお礼参りをしようとずっと決めていたので、この日で最後だという感慨深いものはない。距離的に言えば楽な1日になるはずで、あちこちで休んだり、まわりの景色を楽しめればと思っていた。第87番長尾寺へと進む車道を淡淡と歩く。朝の散歩の人だろうか。男性2人に声をかけられる。「あと少しだね」と言われて、いよいよという気持になってくるものがあった。
こうした朝の時間に、街中を歩くのもそれはそれで楽しい。通学の学生などが歩いているからだ。小さな子供なんかと朝の挨拶をかわすと、ほんとに気持が透き通ってくるような感じになる。
交通量の多い車道から、川のわきのちょっとした道へと入った。遍路のために休憩所があった。それはとてもきれいなところで、大窪寺までの大きな写真入りの地図まである。ありがたい。しかし、この日泊まる宿のあばあさんが行ったコースについてはよくわからなかった。「おへんろ交流サロン」から「栗栖神社」へ行くような雰囲気には書かれていない。けれど、「道の駅ながお」のところにある「おへんろ交流サロン」というのがどういう存在かは少しわかった。そこに行けば何らかの相談もできそうだ。そこで聞いてみればいい。
のどかな川辺の景色の中を歩き、狭い住宅地の通りを歩き、第87番長尾寺に着く。広く静かなところだった。納経所のところにはロウソクが1本5円で売っていた。6本買う。少しの間ベンチで休んでいた。こうした境内の雰囲気に浸るのもあと少しなのだと、名残惜しいような気持でもあった。
長尾寺を出たところで少しうろうろしてしまった。今回の旅ではデジカメの記録媒体であるスマートメディアを、128MBを2つ、64MBと16MBをひとつずつ持ってきていた。標準で撮っているので、全部で1000枚くらいの写真を撮ることができる。前回の旅まではこれで十分だったのだが、そろそろ残りが少なくなってきた。写真を撮ろうと思っても、記録媒体がなかったなら勿体ない。写真を撮るということは、僕の四国遍路の旅において、けっこう重要なことにもなっていた。それで、比較的お店のありそうなこの町で、スマートメディアを買っておこうと思ったのだ。スーパーマーケットのようなところにカメラのコーナーがあれば売っているだろうと思ったがどこにもない。遍路ということで声を掛けてくれたおばさんがいたのでカメラ屋さんがないか聞いてみる。教えてもらったところに行って聞いてみたが、売ってなかった。結果として30分ほど時間を費やしたのに、買うことはできなかった。その後、残りの枚数を気にしながら写真を撮ることにした。
広い車道を歩き、その後車道と平行して走る旧道のような民家と畑の中の道を歩いていく。途中に神社あって、そこで休んでいたときだった。歩き遍路の人が通り過ぎて行った。軽く会釈をする。
道はまた車道へと入り、前山ダムへと近づいていく。地図の上では、「おへんろ交流サロン」というのは前山ダムの近くにあるのだ。いくらか登り坂がきつくなったところでは、自転車を引いて歩いている人がいた。自転車の遍路なのかどうかはわからなかったが、この人は後で「おへんろ交流サロン」で見かけることになる。前山ダムは確かに雄大な風景だった。けれど、この讃岐の地では池というものを見慣れているせいか、そんなに特別なものという印象はなかった。
11時少し前に「前山おへんろ交流サロン」に着く。交流といっても、何がどう交流なのかわからない。展示物があったので、それをぼんやりと眺めていた。その後、係の女性と話をする。名簿に名前を書く。このときに「歩きの人にはバッジを差し上げることになっていますから」と言われ、何を「もらってくるのか」がやっとわかるのだった。奥のへんろ資料展示室を案内してもらう。昔の遍路の大変さが感じられるものだった。部屋の一番奥には、県別の納め札を入れるちょっとしたボックスのようなものがある。そこに名前を書いた納め札を入れる。僕の前には5月に女性の名前があった。たぶん、民宿岡田で見せてもらった、遍路のアルバムをつくった人だろうと思った。
その後で地図を見ながら大窪寺までの道を教えてもらう。この場所から少し歩いたところで、左へ曲がって来栖神社へ行く道があるのだという。遍路シールが貼られてすぐにわかるから、ということだった。この「おへんろ交流サロン」「来栖神社」「女体山」を通るのが、歩き遍路のもっとも一般的な道のようだった。このときの僕には、まだ女体山という存在はよくわかっていない。ちょっとした登りの遍路道だろう、くらいにしか思っていなかった。係の女性の「女体山は大変ですよ、やっと登っても下りがね」という言葉もなんだか軽く感じられたのだった。
大窪寺を終えて霊山寺までお礼参りをするというと、「どうして?」というような感じの声が返ってきた。一般的に、香川県の人はお礼参りは必要ないと考えているような雰囲気があったように思う。大窪寺で打ち終えて、それから志度町に戻り、そこで高速バスで大阪に行き高野山に行くのが早いルートであるとのことだった。
係の女性は僕の疑問のいくつかにも快く答えてくれた。この「おへんろ交流サロン」というのが何なのか。どこがこのような場所をつくっているのか、よくわからなかったのだ。遍路といえば「へんろみち保存協力会」というのもある。関係があるのか、関係がないのか。
「おへんろ交流サロン」というのは、ロータリークラブ、さぬき市がいろいろとやっているという話であった。さっと聞いただけなので、詳しいことはわからないが。特にさぬき市は、途中に地図のある休憩所があったり、遍路については力を入れてくれているようであった。そして、僕が郷照寺のところでもらった、両手を合わせたイラストのある同行二人の遍路シールは、香川県だけのものだということだった。よくわからなかったりもしたが、とにかくここでは歩き遍路のために、何かと頑張ってくれているようなのだった。このサロンも以前は週に1日休みがあったのに、今年の5月の連休から無休でやることになったのだという。歩き遍路にとっては、ありがたいことだ。
最後に、バッチと「四国八十八ヶ所遍路大使任命書」という立派な任命書をもらう。
「貴方は四国八十八ヶ所歩き遍路約1,200kmを実歩され、四国の自然、文化、人との触れ合いを体験されたので、これを証すると共に四国遍路文化を多くの人に広める遍路大使に任命致します。」
ちゃんと自分の名前も書かれている。ちなみに第385号という番号だった。僕の人生をこれまで振り返っても、こうした表彰状のようなものをもらったというのはほとんどない。何かをもらうために四国を歩いたわけでもないし、四国の素晴らしさを多くの人に伝えたいとは思っていたが、この任命書は素直に嬉しかった。
サロンから出たところに休憩所があったので、そこで前山ダムを見ながらお昼ご飯とする。いせだ旅館からいただいたおにぎりを食べる。その後、道の駅の隣にあったレストランに入りコーヒーを飲む。まだ12時頃だったので、時間があるだろうとゆっくりとしていた。それにしても、遍路の途中で飲む温かなコーヒーというのはどうしてこんなにも美味しいのだろうか。
第八十八番へ向けての最後の道を歩き出す。少し歩いたところに、廃車があり、そこに遍路シールが貼られていた。確かに目立っていて、すぐにわかった。道に入った頃にはいくらかの民家があったが、しだいに少なくなる。のどかな緑の景色の中を歩いていく。陽はガンガン照り続け、暑さは最高潮だった。ひっそりと栗栖神社があった。寂しそうな建物ではあったが。
前山ダムの少し前の道だったと思う。遍路の案内がいくつかあったのだが、この栗栖神社から女体山への道は、「感動的な景色」みたいな表現で書かれていた。暑くて大変ではあったが、どのような景色なのかという楽しみもあった。
静かな流れの小川の脇をずっと歩いていく。適度な木陰になっており、確かに素晴らしい景色だった。まわりには誰もいない。結願を前にこのような場所を歩けるとは嬉しいことだと思った。しかし……。
土の道だったがちゃんと整えられたところだった。最初は何かの草が道に横たわっていたのだと思った。しかし、よく見るとそれはヘビだった……。立ち止まると、草陰の方に逃げていった。黒い色のヘビだけではなかったのである。この数分後には、左側の木の方で動いている黒いヘビを見かけた。地面で動いているのとはまた違った感覚だった。何しろヘビが立体的な存在となっていたのある。
感動的な景色はすっかり醒めた。襲われるという感覚はなかったが、とくかくヘビがいないかそれだけに意識を集中して歩いた。これから先、2巡目、3巡目の四国遍路をやりたい気持はある。けれど、夏の遍路だけは止めようと思うのであった。
道はしだいに、厳しい登りの遍路道へと変わっていく。女体山の登りに入ったのであった。かなり急な登りだったと思う。たぶん、これが体力を使い果たしている夕方の時間だったら登れなかったのでないかとも思う。僕としては、焼山寺の遍路ころがしに匹敵する大変さだった。
それにしても、この女体山という名前は凄いものである。結願を直前にして、女性の体を超えなければならないわけだ。人生とは何と厳しいものなのだろうか。
少し歩いて休憩しということを何度も繰り返す。時間は十分にあったので、とにかく焦らないで進もうとした。それにしても、最後の最後の登りには、辛いというよりも笑みが出てしまった。這いつくばって岩場を登っていくような感じだったのである。やや身体が震えるような緊張感があった。落ちて怪我をする人はいないのかと思ってしまうくらいだったのだ。
しかも、この時に困った問題を抱えていた。ハエなのかアブなのかよくわからないが、僕の身体にまとわりついていたのだ。この一番登りの厳しいときに。
頂上に着き、ベンチでごろりと横になっても、それは離れてくれなかった。でも、どうでもいいやという気持にもなっていた。約10分ほどはここで空を見上げて休んだ。
これまでの遍路において、頭の中で流行り歌を口ずさんでいるようなことはあった。しかし、自分自身驚いたことでもあったのだが、この最後の女体山越えでは僕は「南無大師遍昭金剛」と頭の中で唱えていた。あまり意識することなく自然とそうなった。音の響きにチカラが入るような感じがしたのだと思うが。ほとんど弘法大師と関係ないような雰囲気ではじまった僕の四国遍路であったが、最後に抵抗なく「南無大師遍照金剛」と言えるようになったような気がする。嬉しいことだった。
難所はもう過ぎたと思った。けれどここからの降りも、急で大変なところだった。大窪寺まで約50分ほど、この遍路道での格闘があった。一度転びそうになったことがあった。右足を置いたときに、ガクッと横を向いた形になった。ちょっと休んで元に戻ったが、ゴール直前でリタイアということにもなりかねないようなことだった。さらに、慎重に歩いていく。
道を間違えたのではないかと思えたこともあった。案内がよくわからなかったのだ。疲れていることもあり、自分のいる場所というものがよくわからない。ひょっとしたら登る前にいた場所ではなかったのかと思えてくる。だとしたら、もう一度さっきの道を登らなければならないのか、なんてことまで考えてしまい絶望的な気持になったりする。そんなときに、前方から歩いてきた女性と出くわす。その人は遍路姿ではなく、極めて普通の服装だった。大窪寺から、登ってきたのだという。車で来たので申し訳ない気持で自分で歩いてみようとしたのだと。ちょっと登るには急なところであり、凄いことのようにも思えてしまったのだが。
とにかく、歩いている道に間違いはなく、あとほんの少しで大窪寺に着けるということがわかったのは嬉しいことだった。見晴台のある休憩所でも、ゆっくりと風景を眺めることができた。そこからは大窪寺の雰囲気が若干感じられたのだが、お寺以外には何もないように見えた。
途中で女体山を振り返ったのだが、かなり厳しそうな頂が聳え立っていた。よくもまあ、あんなところに登ったものだと信じられない気持だった。
一歩一歩、下りの遍路道を歩き、第八十八番大窪寺へと着いた。3時40分だった。
本堂と大師堂と参拝を済ませ、納経所に行く。いつも通りの淡淡とした手順だった。この寺の他とちょと違った景色は、本堂の前の方に記念写真を取れるように椅子が並べられプロのカメラマンがいたことだろう。知り合いで自転車遍路をやった人はここで自然に涙が流れ出てきたと言っていたが、僕は全くそんなことはなかった。最初に四国を歩いたのは2001年の10月で、すでに2年と8カ月という時間が過ぎていた。嬉しいことは嬉しい。けれど歩いてきた中で、四国遍路というは終ってからが始まりなのではないか、という気持の方が強くなってきた。
四国遍路を始めるときに、ひとつだけ考えたことがあった。最後までやり抜くことで、自分自身に自信というものが持てるのではないか、ということだった。
実際に第八十八番大窪寺に着いてみれば、僕以外にも多くの人が達成しているということが実感できる。ずっと少ない日数で歩いている人も数多くいるわけで、そんなことを考えてしまうと、この達成感もどこかに行ってしまうような気持になる。
遍路というのは、終れば何がが急に得られるものではない。そんなものはこの世の中に有り得ないと僕は思っている。だから、この結願というものが、これからのはじまりだと、歩きながらずっと考えていた。
実はこの数日ずっと考えていたことがあった。大窪寺でやること、についてである。あまり夢のない話になるかもしれないが、「コカ・コーラC2を飲むんだ」と決めていたのであった。元々僕はコーラというよりも炭酸水を飲むことはほとんどない。特にこの四国遍路では、身体(特に胃腸)に良くないと飲まないようにしようと思っていたこともある。この新製品の発売が出発の直前というようなときで、自動販売機で爽健美茶を買うときに、どうしてもこのコカ・コーラC2という存在が目に入り、気になっていたのである。まだお礼参りはあるが、この話題の炭酸水を飲むことで、お祝いをしようと思ったのだ。境内の景色を眺めながら飲むことができればと思っていた。しかし残念ながら、境内に自動販売機はなかった。しかたなく山門を出たところでコカ・コーラC2を買い、休憩所で大窪寺を眺めながらゆっくりと飲んだ。
ここには何軒かのお土産屋があった。中を見ると、結願という文字の入ったお菓子などもあったようだ。何らかのお土産を買いたい気持もなくはなかったが、僕の旅はまだ続いている。
予約していた民宿八十窪はすぐ近くにあった。とてもキレイな建物だった。入り口で名前と言うと、すぐにわかってくれて笑顔で対応してくれる。
ゆるやかな階段には手すりもあり、歩き遍路に対してやさしい宿だったと思う。部屋は2階の「さくら」という名前のところだった。すぐにお風呂に入る。実は僕はお風呂の入浴剤は苦手であったが、ここのお風呂は気持ちよく入ることができた。広めのお風呂に両手両足を広げ、ぼんやりと過ごす。このお風呂は、ほんとうに気持の良い、忘れることのできないお湯だった。
部屋に戻り、畳の上で横になる。部屋にはノートが置いてあり、それをちらりと読む。いくつもの遍路の気持が書かれていた。その中でどうにも惹かれる一文があったので、メモ帳に書き写した。それは、東京に住む30歳の女性の文章で、次のように書かれていた。
「見返りを求めず、誰かのために何かができる人間になりたいです」
夕食だという声が掛かる。1階の食堂に行く。ノートにも書かれていたし、どこかで聞いたこともあったが、この夕食には結願を祝ってくれる赤飯があった。他にもメニューが多く、嬉しい食事だった。
何人かの歩き遍路の人もいたようだった。僕はこの食事の場ではほとんど話をしなかった。話に入っていかなかった僕が悪いと言われればそれまでだが、無理して話をしたくもなかった。
僕の正面の席では、けっこう大きな声の男の人がひとりで話をしているような状態だった。39日の通し打ちだったのだという。とても大声で、「また遍路をやりたいという気持がわからないよ」と言っていた。もちろん、そうした気持は後から変わってしまうものかもしれないし、ひとりひとり違うものであり、誰かが何かを言うことではない。とにかく前へ前へ進めでまわりの景色も見なかったから、という話をしている。他の顔見知りの人と話をしていたようだったが、その人がどうしたこうしたという内輪の話ばかりが続いていた。なんだか区切り打ちの歩き遍路というのは、転校生なのかもしれないと思えてきた。子供の頃に僕は転校生という存在をやっていた。そんなことを少し思い出す。
僕は食事を終えてすぐに部屋に戻ったのだが、その大きな声は部屋までも聞こえてきていた。
四国遍路というものに、何が正しいかなんてものはない。僕は自分の旅のやり方が良かったのかどうか、自問していた。ずいぶん横道に逸れて歩いたりもした。区切り打ちで長い時間が掛かった。ひとりで結願し、ひとりでこうやって部屋にいる。
なかなか思うように四国に来ることはできなかった。でも、だからこそ大切な場所だと思えたのではないか。またいつか四国を歩きたいという気持はちゃんとある。
考え込んでばかりもいられない。まだ僕の旅は続いている。どのように霊山寺に行こうか、まだ決めかねていた。できるだけ違った景色の中を歩きたい。しかも出来るだけ昔の遍路道に近いコースがいい。それが僕の基本的な考えだ。それから言えば第10番切幡寺へと行くコースは避けたかった。
最初に考えたのは、最も長距離を歩くコースだった。「四国総奥之院」と称されているらしい與田寺を通り、引田・折野経由での44.7キロというのを考えた。他のコースが39キロほどであることを考えるとかなり長いが、別に急ぐ必要もない。宿に予約の電話を入れてみる。なんとかOKだった。しかし、正直に言うと、この電話の対応に腹が立った。これまで、四国を歩いてこうしたことは初めてのことだ。どうしようか少しの間考える。もう一度地図をよく見る。そして、與田寺を通らずに引田を通り、大坂峠を越えるという道で行けることを見つけた。第3番の金泉寺に出るコースだ。
僕は一度予約を入れた宿にキャンセルの電話を入れた。そして、金泉寺の近くの宿に予約を入れた。
この宿はとても良かった。他にはあまりない特徴としては、各部屋それぞれに洋式のトイレがついているのだ。足の弱った歩き遍路としては何よりも嬉しいことだ。けれど、そうなると自分の部屋から外に出るということがない。それはそれで何か寂しいような気もしたのだった。
何時に寝たかはあまり覚えていない。夜中に起きて、眠れない時間もあった。
◎ 第5期 7日目:約22.6キロ / 2004年6月16日(水)
◆ 第87番 長尾寺
◆ 第88番 大窪寺
◇ 昼食:旅館いせだのお接待のおにぎり
◇ 宿泊:八十窪 6500円
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