四国遍路日記 第5期 9日目 2004年6月18日(金)
|
6時過ぎから起き出し、準備をする。いつもは足にテーピングをしていたのだが、この朝はもうしなかった。痒みが出ていて、かなり辛くなっていたのだ。歩くのはもうほんのちょっとだけなので、マメが出きても構わない。
7時に朝食を取り、すぐに出発する。
4キロの道のり、基本的に歩くのはこれで最後となる。途中で歩き遍路の二人連れとすれ違った。僕の方から「こんにちは」と声を掛ける。白衣の真新しさがやけに眩しい感じがして、微笑ましいやら懐かしいやら。
第2番極楽寺にも寄る。納経はしないが、ちゃんと手は合わせた。そして、広い国道12号線を歩き、第1番霊山寺へと着いた。あっという間の時間だった。
なんだか狭く感じられた。緑が生い茂っていることで、そう感じられたのかもしれない。リックを本堂の上、納経所の手前のベンチに置いていた。前にもそのベンチに座って、本堂で巡拝する人たちを見ていたのだ。ちゃんと本堂、大師堂という巡で普段通りの参拝を行なう。
そして、納経所へと行った。考えてみると、ここで納経してもらうのは初めてなのだ。いつもどの寺でも、書いているところを見るというのがひとつの楽しみというか、僕の遍路にあたっての大切な行事だった。ここで買った納経帳はすでに霊山寺の納経が済んでいたものだったので、書くところを見るということはなかったのだ。
それにしても僕の納経帳はかなりボロボロになっていた。足摺岬へと歩く道でずぶ濡れとなってしまったので、中の紙はかなり変色している。でも、それだけに僕にとっては愛着のあるものとなっていた。
僕は、納経帳の最後の方のページを開いて差し出した。それを見た係の人は、姿勢を正して僕に声を掛けてくれた。何て言ってもらったのかは覚えていない。「ごくろうさま」とか「おつかれさま」とかそうした類の言葉だ。
ぐっと胸にくるものがあった。涙が流れそうになった。正直なところ、四国の八十八ヶ所をまわり納経して、こんな風に言ってもらったのは初めてだった。涙はぐっと堪えた。そうでなければ、溢れ出て止まらなかったのかもしれない。
その後で、お茶も出してもらった。最初にこの場所に来たときのことを思い出した。同じ畳の上に座り、このテーブルでお茶を出してもらった。
お礼参りというものについては、あちこちで話を聞いた。でも、この場所に来て、納経して、本当に良かったと思った。
何よりも「区切り」をつけることができたのではないかと思う。僕の中ではどこが旅の終わりなのか、よくわからないでいた。それは八十八番までまわったとか、ひと回りしたとかという物理的なものではなく、気持の面での区切りだった。とにかく、ここで声をかけてもらったことによって、僕の四国遍路の旅は終ったのだと明確に感じることができた。
区切り打ちとはいえ、全くの「歩き」での四国一周である。最初に自分でやろうと決めたことを、ちゃんと成し遂げることができた。こうした人は他にもいっぱいいて、大したことでもないような気持にもなっていたが、やっぱり自分自身を褒めてやろうと思った。
この売店で御影保存帳を買った。歩くことの終った霊山寺で買おうと思っていたのだった。いくつか種類はあったが値段が違わなかったようなので、写真入りのものを買う。
少し名残惜しいような気もしたが、霊山寺を後にしJR坂東駅へと歩いた。いくつかの旅館のあった通り、狭い駅前の通りは、なぜか記憶にあり懐かしいものだった。
とりあえずはJR徳島駅へ行こうとしていた。駅についたのは8時50分頃。JRについては時刻表がどうなっているのかもわからず、ただ一番早く来た電車に乗った。10時15分徳島港発のフェリーに乗れるかどうか、ギリギリの時間じゃないかと思っていた。電車に乗ってしまったならば、もう焦っても仕方が無い。白衣を脱ぎ、金剛杖も袋に入れ、お遍路さんの服装から一般人へと。まあ、菅笠はそのままリックについていたので、見る人が見ればわかるわけだが。
前にも感じたことなのだが、このJR四国の電車からの景色は楽しいものだった。外を見ながら、しばしの時間を楽しむ。
JR徳島駅に着いたのは9時40分頃だった。フェリーの出発時間は10時15分、どこに徳島港があるのかは全くわからないが、なんとかなりそうではないか。徳島港行きのバス乗り場がないか少し見渡す。しかしよくわからなかったのですぐに断念。考えてみるとバスというのは途中で止まったりしてけっこう時間が掛かる。思い切ってタクシーに乗り込む。すいすいとタクシーは徳島市内を走り抜けていく。10分ほどでフェリー乗り場へと到着。まずは、ひと安心というところだった。
実は助かったことがあった。タクシーに乗り慣れないということもあり、料金を払うときにもたついてしまう。別に急ぐ必要もなかったのだが、慌てたのだ。それに、歩きが終ったところで、金剛杖を忘れてはいけない、という頭があった。
降りてタクシーから離れようとしたとき、運転手さんに財布を落としたことを指摘してもらった。僕は全く気がつかないでいたのだ。車内に僕の財布は置かれていた。そのままであったなら、大変なことになってしまうところだった。
チケットを買うわけだが、フェリーというものがいくらくらいする乗り物なのかもわからなかったもので、何だかドキドキする。周りにはお遍路姿の人も何人かいた。10時には乗船できるようになったので、余裕を持ってフェリーに乗り込む。和歌山港に着くのは12時10分、そこから高野山までどのくらいかかるのかはわからないが、夕方までには確実に着くだろうと判断する。
最初はデッキの方にリックなどの荷物を置いていた。風が気持よく、ずっと海を見ていたかったのだ。一応船内のスペースも探検すると、ほとんどは絨毯の引かれたスペースとなっていて、多くの人は横になっていた。ある一角は、団体のお遍路さんのようでみんな白衣姿だった。
船が動き出し港から離れるときには、嬉しくて嬉しくてずっとデッキでその景色を見ていた。まるで子供のようであったように思うが(笑)。徳島港からどんどん離れていく景色は、なんとも言えない良さがあった。フェリーに乗って正解だった。弘法大師のことが思い出されたのだ。中国に渡るときの、弘法大師についてだ。海を見ながら、何を考えていたのだろうか。もちろんそんなことはわからないが、弘法大師という人物に、少しだけ近づくことができたような気がしたのだった。
途中で荷物を下の部屋のスペースへと移動する。僕も横になって休もうと思ったのだ。けれど、揺れる状態に身体がうまく馴染んでくれない。だいぶ前になるが、もの凄い船酔いをしたことが思い出された。約2時間、そんなに揺れているというわけでもない。でも、横になることが不安でもあった。ふたたびデッキに出て、風に当たりながら海を眺める。風はけっこう強く、長くいるには厳しいものもあった。デッキにはスーツ姿のサラリーマンがいたのだが、書類を出して仕事をしているようだった。
この船がどこをどう走っているのかは定かでなかったが、時計を見ると和歌山港に近づいてきたようだった。あっという間に景色は港のものとなり、静かに到着した。
問題はここからだった。高野山への案内には、JR和歌山駅から行く方法が書かれている。しかし、僕は全くこの和歌山の交通事情というものをわかっていなかった。改札口のところで行き先掲示板を見ていると、「どこまでですか」と駅員さんが声をかけてくれた。高野山までというと、それだったら大阪なんばまで行った方が、早いし安いですよ、という返事。大阪なんば行きの高速バスに乗ろうか、和歌山行きフェリーに乗ろうかで迷った者としては、これから大阪まで行こうという気持にはなれない。時間がかかったとしても、である。悩むことなく、JRを使って高野山に行くことにする。
しかし、これが大変だった。JRを使って、というのはJR和歌山駅から和歌山線に乗って橋本という駅まで行くことである。その駅で南海電車に乗り換える。まず最初にぶち当たった問題は、この和歌山港からJR和歌山駅までどうやって行ったらいいのかわからないということだった。よくわからないながらも、電車に乗り和歌山市駅まで移動する。ここは南海電車ということになる。和歌山といえばけっこう都会なのだろうと思っていたが、電車の中には車掌さんがいて、行き先掲示などはバスのようでもある。なんだかよくわからない。正面斜め向かいに座っている女子高生のルーズソックスは、輪ゴムで止められていた。東京とも、四国とも全く違った場所に来たようで、心細い気持になっていた。
電車は和歌山市駅に着いた。しかし、この駅はJRなのか南海電鉄なのか、わからない。恥ずかしながら切符をどうやっていいのかもわからなかった。JR和歌山駅までの電車に乗ろうとしても、よくわからない。このJR和歌山駅に行く電車というのは30分に1本ほどで、かなり本数が少なかった。なんだかよくわからないままに、ぽっかりと時間が空いてしまう。
駅の外に出て買い物をすることにした。買いたい買いたいと思っていたスマートメディアが売っていないか探し回る。残りは20枚程という状態になっていたのだ。運良く店を見つけ64MBのスマートメディアを購入。そして駅へと戻り、南海そばという立ち食い蕎麦の店でカレー丼を食べる。レトルトの袋から丼にカレーを入れていたのに驚く。
なんとか出発の時間となり電車に乗り込む。JR和歌山駅にはすぐに着いたのだが、僕のわからないウロウロはここでも続いた。とにかく、橋本という駅に着けばあとは問題はないと思っていたのだ。ところが、どの電車に乗ったら橋本に行けるかがわからない。和歌山線の電車がちょうど出る時だったので、その電車に駆け乗ることにした。
このJR和歌山線というのも極めて本数の少ない路線だった。距離的にはどう考えても和歌山から高野山に行った方が早い。しかし時間的には、大阪なんばに出た方が早いという謎がやっと解けた。
あくまでも結果論になるが、僕のこの日のルートは正解だったと思っている。四国でのことを考えたなら、このくらいの交通機関の待ち合わせは普通なのだ。あせって先へ進むこともない。そして、何よりも、この和歌山線の電車からの景色はなかなかのものだった。のどかで、緑が多くある。少しずつ都会の賑やかさから、高野山という場所に向かうのだという雰囲気があった。
電車は途中の粉河というところで止まった。ここが終点だった。ひょっとしたら、この駅始発の橋本方面に出る電車がないものかと思ったが、それはなく、40〜50分ほど僕はこの駅のホームで待つこととなった。僕以外にも同じように待っていたひと家族がいた。けれど、他にはほとんどホームに人はいない。静かなところだった。僕はこのホームからの景色に魅了されていたのだと思う。それは、そんなに力強いものではないけれど、遠い子供の頃のことを思い出すような感じのものだった。
この景色の中に寺の案内の表示があった。「西国第三番 風猛山 粉河寺」と書かれている。駅から歩いて10分ほどらしい。「西国三十三ヶ所めぐり」というものが急に僕の頭の中に広がってきた。もちろん、四国遍路の旅はまた続けたい。けれど、四国以外のところを旅してみたいという気持も僕の中にはあった。実際に、秩父三十三ヶ所を歩いている僕としては、この西国三十三ヶ所というのも魅力的な地であった。こんな景色の中を歩くことができたなら。そんなことを考えてこのホームで電車を待っていた。
その電車を待つ時間の中で、電話を1本かけた。ホームページで調べておいた、高野山宿坊組合というところにこの日の宿の問い合わせをしようと思ったのだ。このときの時間は2時を少し過ぎたあたり。今僕のいる場所を言うと、5時までには高野山に着くはずですから駅を出たところの案内所に行ってください、ということだった。宿が決まらないにしても、大丈夫なのだろうと少し安心する。
電車が来た。ここで僕は危うく大きな失敗をするところだった。電車の椅子に座ったはいいが、何かが足りない。電車を待っている間に考え事をしていたので、現実にうまく馴染めないでいた。冷静になって自分の周囲を見渡すと、金剛杖が無かった。どこにあるのだ。かなり焦った。とりあえず急いで電車を降りた。次の電車までは1時間くらいまた待たなければならないかもしれない、なんてことがちらりと頭を過ぎった。座っていたベンチのところに行くと、金剛杖があった。それを手に取り、急いで電車の中へと戻った。そして、発車した。
かなりバタバタしていたので、恥ずかしくもあり、車内では小さくなっていた。電車は橋本駅に着き、南海電車へ乗り換えとなる。改札口を出るような区切りのある駅ではないため、またウロウロする。ホームに駅員さんのいるボックスがあり、そこで高野山に行きたいのですが、と聞いてみるとその料金を言われた。
数分後に来る高野山行きの電車を待っていると、若い男性が声を掛けてきた。大きなリックを背負っていて、手には大事そうに巻物のようなものを持っている。フェリーでも見かけたので、ひょっとしたら遍路なのかな、と思ってはいたが。
彼は通し打ちで四国を歩いて高野山に行くということだった。巻物のようなもの、を取り出してくれたのだが、それは金剛杖だった。本来の長さの3分の2くらいになっていた。歩いている途中で短くなったのだという。僕の金剛杖の長さは全く変わってない。多くの人は手にするところが破れていたりするが僕のはきれいな状態だった。金剛杖には材質がいくつかあり、値段も違うみたいだ、と彼は言っていた。
高野山まで、電車の中でいろいろと話をしていった。50日ほどでまわり、その後、四国の観光をしていたのだという。途中で知り合った人のとことに泊まったりもしていたらしい。まだ20代前半でかなり若く見えたのだが、彼の話によると歩きながら出会った人は同じような年代の人が多かったということだった。話題の中にはお礼参りのこともあった。彼は霊山寺まで歩いてお礼参りはしたが、納経はしなかったということだった。
電車は極楽寺駅へと着く。時間はもう4時になっていた。フェリーを選択したことにもよるわけだが、なんだかんだと四国から高野山にはほぼ丸1日が掛かるということだった。
ケーブルカーに乗る前にはちょっと躊躇する。四国では何箇所かケーブルカーのあった山を登ることがあったからだ。歩くことなくケーブルカーという交通手段に乗っていいのだろうか、などと余計な気持が頭を過ぎるのだった。
初めて乗るケーブルカーという乗り物には驚いた。もの凄く急な車内となっているのだ。まさに、通路は階段となっていて、その途中に座席がある。そして窓からの景色は全くの山の中だった。
高野山の駅の前にはすぐに宿坊の案内所があった。そこで泊まりたいということを言う。値段にはいくつかのランクがあるようだった。1番安い9500円でお願いする。他に希望などはあるかということを聞かれた。何も無いというと、僕の書いた住所を元にして、宿坊を決めたようだった。ここで料金を払い、代わりに予約証というかクーポンのようなものを渡される。
この高野山という場所のことが全くわかってない僕は歩いていくことはできないのかと聞いてみる。かなり遠いということと、道路は自動車専用なのでバスに乗ってもらうしかないという答えだった。ちょうどバスが出るということで、走ってそのバスに乗り込んだ。確かに、自動車専用道路で、あまり広くもない山の中を走っていった。そして女人堂という建物のあたりから、市街地へと変わる。
高野山というのは、町でもあった。寺しかないところというか、大きなお寺だと僕は漠然とイメージしていた。ところがこの場所は、生活観のあるひとつの町だったのだ。歩いている人には、小学生などの小さな子供もいる。警察という建物もある。ケーブルカーからの景色からは想像もできない、ほんとうに天空にあるような都市だった。
かるかや堂前というところでバスを降り、この日の宿である恵光院へと入った。広く、きれいで、驚くようなところだった。茶の間のようなところで、住所と名前を書き、食事、風呂、翌日のお勤めについての説明を受ける。朝のお勤めが6時30分ということでちょっと意外な感じがして、間違いでないか後で確認してしまった。お寺の6時30分というのは僕のイメージからして、かなり遅いものだったからだ。
若いお坊さんに風呂の場所、部屋までの案内をしてもらう。迷路のような廊下を歩いて部屋へと向かった。はたして自分はひとりで迷うことなく部屋まで行けるのか、冗談抜きで不安だった。広いだけでなく、たぶん僕の部屋は一番奥にあったのだと思う。でも、その部屋はとても素晴らしいところだった。高級旅館によくあるように、椅子とテーブルのセットが置かれている。そして、そこから見る中庭がきれいなのだ。四国の遍路宿と比べると、この高野山の宿坊の料金というのは高いようにも感じられたのだが、実際に部屋でこうした静寂の景色の中にいると、逆に安いくらいに思えてくる。その窓にしてもサッシではない、昔のままの戸というものがあった。
さっそくお風呂に入る。いくつのの洗い場のある広めのお風呂だった。僕以外には誰も人は入ってこない。かなりゆっくりと浸かっていた。
部屋でくつろいでいると、もう夕飯である。5時半なので、早いといえば早いのだが。若いお坊さんが、お膳を運んできて、そのセッティングをする。こうしたひとつひとつも見ていて楽しいものだった。このときに翌日の朝のことについてもう一度確認する。6時半に、わかるように呼びにきてくれるようだった。そして注意を受ける。服装は浴衣ではなく、ちゃんと私服に着替えてくださいと。他のお客様に迷惑になりますから、ということであった。四国の宿坊ではこうした注意を受けたことはなく、着替えるのは当たり前のことだったので、やや意外だった。でも、よく考えてみると四国の宿坊はその多くが遍路で、朝のお勤めは当然のことという感覚がある。この高野山であれば、観光でたまたま宿坊に泊まったという人もいるわけで、こうしたこともあるのだろうと思った。
食事は精進料理。天ぷらや胡麻豆腐、煮物に素麺もある。デザートとしてのブドウもあった。ひとつひとつがちゃんと調理されているとでもいうのだろうか、美味しいものだった。食事ではないが、参拝記念という袋をいただく。中にはこの宿坊のパンフレットと、高野山恵光院と名前の入った厄除長寿の箸が入っていた。
食事が終ったところで電話を入れて、お膳を下げてもらう。その時に、布団も敷いてもらった。2人のお坊さんが、目で合図しながらシーツを敷くところには思わず笑みが出てしまいそうになった。
まだ時間もあったということで、もう一度お風呂に入りに行く。その途中にある大広間では団体客が食事をしているところだった。僕が宿に着いたときには、他に誰も宿泊客がいないのかとやや不安だったが、ちょっと安心する。正直なところ、朝のお勤めなど、何もわからない僕としては他の人の真似をするしかなく、団体客などがいないと困るのである。
お風呂は多くの人が入ったという雰囲気はあったが、この時にはまた僕ひとりだった。部屋に戻ってから、近くのトイレに行ったときだった。ドアを開けるときに、他の客と顔を合わせる。団体客だけでなく、個人で泊まっている人もいたのだ。この人は外国からアベックで来ている様子。東京や京都などではなく(も行ったかもしれないが)、高野山に来るというのも古い日本を知るひとつの方法かもしれない。
部屋にはテレビもあったが、見る気はしなかった。携帯でメールを打っていたのだが、うまく繋がらない。この高野山という山の上の場所だから電波が届かないのか、それとも弘法大師に特に関係の深い場所だからなのか。携帯のメールに関して、この旅では他に不思議なこともあった。迷惑メールというものが当然のように誰しも受けるだろう。僕の携帯は少ない方だが、それでも1日に1、2通はあった。ところが、今回四国を歩いているときには1通も無かった。そして、第88番大窪寺を終った翌日に、迷惑メールは来たのだった。
この日もというべきか、かなり早い時間に寝てしまった。けっこうぐっすりと眠っていた。
◎ 第5期 9日目:約4キロ / 2004年6月18日(金)
◆ 第2番 極楽寺
◆ 第1番 霊山寺
◇ JR高徳線 板東駅−徳島駅 260円
◇ タクシー 徳島駅−徳島港フェリー乗り場 1260円
◇ 南海フェリー 松島港−和歌山港 1800円
◇ 南海 和歌山港駅−和歌山市駅 150円
◇ 南海+JR 和歌山市駅−橋本駅 820円
◇ 南海 橋本駅−高野山 810円
◇ バス 高野山駅−かるかや堂前
◇ 昼食:「南海そば」カレー丼 400円
◇ 宿泊:宿坊 恵光院 9500円
|
|