四国遍路日記 第5期 8日目 2004年6月17日(木)
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5時半頃に起きる。食事は6時から。元気に食べて、出発する。他の人はゆっくりとした雰囲気だった。時間は6時20分だった。
ゆるい下りの車道を淡淡と歩いていく。ときどき後ろを振り向いた。女体山が見えたのかどうかよくわからなかったが、大窪寺からどんどん離れていくことを確認した。どちらかというと、こうした山から下りる景色というのは単調なものだ。長く続く道路に、田畑と山の景色。でも、この四国を歩くことで田畑に対しての認識というか、気持のようなものが変わってきたのではないかと思う。
道を間違えないように注意深く歩いていった。けれど、どこを歩いているのかわからなくなってしまう。僕の地図の見方が悪かったのだが、五明トンネルを越えて左へ曲がってしまっていた。交差点のところでうろうろしていると、赤い車に乗った地元の人に声を掛けられる。地図を出して、白鳥温泉の方に歩いていきたいのだと言うと、現在地とどこをどう曲がればいいかを明確に教えてもらった。青い屋根のところ、大きなイチョウの木のところで左へ曲がる、と。不安だった道はこれで問題はなくなった。イチョウの木は確かに大きく素晴らしいものだった。
この道は普通の車道なのだが、そんなに広くはなく交通量は少ない。遍路マークはいくつもあり、ほんとうに昔の遍路道なんだという雰囲気だった。この静かな雰囲気は、これまでの四国遍路の道を振り返るようなものだったのではないだろうか。つまりこのお礼参りの道は、ウイニングランのように、四国の風景を改めて楽しむ素晴らしさに満ちていた。山と田畑は穏やかな雰囲気で、大げさかもしれないが、今がいつの時代にいるかのを忘れさせてくれるものだった。中尾峠のところは遍路道になっている。静かな森の中を抜けるやさしい道だった。
白鳥温泉まで来たところで少し休憩を取る。大きな旅館があり、川があり、公園がある。静かでいいところのようだった。宿泊客がいるのか寂しい雰囲気はあったが。こうした自然に満ちた観光地というのは難しいものだ。人が多ければ、その良さが消えてしまうような感じがあり、少なければ建物が大きいだけに、寂しさは膨らむ。
8時50分頃に、僕が目指す道と與田寺へ行く道との分岐点に着く。この日、約11キロの地点。朝早く宿を出たのがよかったのだろう。思っていたよりも早いペースで進んでいるようだ。
正直なところ、ここから先の引田までの約10キロがキツイものだった。特別な目標物のない単調な景色というのは、気持も飽きてしまう。景色が悪いというわけではないのだが、変化のない時間を過ごすのは辛いのだ。地図には郵便局の場所が書かれている。しかし、歩く目標が郵便局というのも楽しくはないわけだ。
やっと高松自動車道が見えてきた。考えてみると香川県に入ってからは高速道路のこっちとむこうを行ったり来たりしているようだ。
引田町の中心地に来たようだったが、海が見えない。海岸線にある町なのに。それに、お昼どきでどこかに店がないかと思っていたのに、何もない。そこで、海側の方の道路へと移動する。
道路は海のすぐ隣を走っている。この道を歩いたのだが、防波堤が高く歩いているところからは海の景色は見えなかった。途中で、海岸に下り、少し休憩とした。砂浜ではなく、石がごろごろしているところで歩きにくかったが、波打ち際まで行き海の水に手を入れた。
防波堤は見えるが、他には工場などの建物は何も見えない。静かでいい風景だ。四国から瀬戸内海を見る景色というのは、難しいものだと思うのだ。多くの島、入り組んだ海岸線に海と空は特別なものだ。しかし、人工物がその美しさを遮っているような感じもする。もちろん、四国という場所に生活をしていない者の勝手な言い草ではあるが。
食事をするようなところはなかなか無かった。ローソンの案内があったので、そこでおにぎりでも買おうかと歩いていく。でも、その近くには観光バスなども止まっている大きなレストランがあった。2、3軒、店はあったのだが、「活魚の王様 讃岐家」というところに入る。海の近くなので、新鮮な魚を食べたいと思ったのだ。「おまかせ」という定食メニューを注文する。1344円だった。どのメニューもけっこう高かった。天丼などは若干安かったが、せっかくなのでケチっても仕方が無いと自分に言い聞かせる。この「おまかせ」は刺身の5点盛りである。
店内は観光客というよりも地元の人で賑わっているようだった。香川県というと、讃岐うどんの安さが印象的だっただけに、1000円を超える定食メニューの値段はちょっと意外だった。
刺身は値段の分は十分にある食べがいのあるものだった。このとき、僕は今回の旅でずっと持っていたよくわからない違和感が何だったのかやっとわかることになる。何度か宿でも刺身を食べた。僕は刺身が好きだし、もちろんそれは美味しいものだった。けれど、何かが違っていた。
刺身醤油が、かなり独特なのではないだろうか。四国というより香川が特別のように感じたが。関西などで刺身を食べたということは無いので、何が普通かというのはわからない。でも、東京での刺身醤油はこんなに濃くは無い。正直なところ、醤油というよりはソースというような感じさえする。正直なところ、僕は刺身醤油に関して言えば、薄い醤油の方が好みである。
その地方によっていろいろな味があるのは、別に不思議なことではない。しかし、ここは讃岐の地である。僕のイメージというのは、透き通ったような讃岐うどんの麺つゆである。東京のうどんの麺つゆはしばしば、濃いと言われる。どうして刺身は、こんなにも濃い刺身醤油で食べるのだろうか。これは僕の気のせいなのか。讃岐の大きな疑問であった。
満腹になったところで出発する。時間は12時55分。大坂峠という最後の最後の難所を超え、徳島県へと向かう。目の前に高い山が聳え立っているという感じなのだ。一番高いところで400メートル弱。けれど、ほとんど0メートルから一気に登っていくわけで、かなり急な峠ということになる。
最初は車が通れるような道だが、少しずつ山の遍路道へと変わっていく。ところどころにはこの大坂峠の説明があった。明治の時代に出来たようだか、かなり重要な交通の要所となっていたようだ。お遍路も通り、お接待のあった店の跡なども示されていた。
最初のうちは下を見下ろすと青い海が広がるという絶景の景色があった。登りがきつくなるにつれて、山の緑だけの景色となる。雰囲気としてはヘビが出てきそうなところで、かなり注意深く歩いた。ただ、草を掻き分けるような遍路道ではどうしようもないのだが。
こうした峠で県境という場所に来るのも特別なものがあった。讃岐の国から阿波の国へと戻るのだという気持が、誰もいない山の中だからこそ、胸の奥にひっそりと出てくる。
下りもけっこう辛い道だった。遍路道を抜けたのが2時40分頃。結果として1時間45分ほど、山の中を歩いていたことになった。
この日はあと5キロほど歩けばいいことになる。JR高徳線とほぼ平行する形で歩いていく。
高松自動車道を超える少し前のところだった。地元の農家だろうおじさんと少し話をする。痩せた感じのその人はタバコを吸って、静かに地元の言葉で話をしていた。弘法大師という人についてだった。遠い過去の人物、それも神秘的な参拝の対象という人物ではなかった。中国に渡って、多くの苦労をして、その知識をこの四国の地で実践したのだという。そして、自分達の暮らしがあるのだと。特にこの香川で多く見た池、田畑を振り返ると、このおじさんの話は実感を持ってくる。たぶん、宗教家というよりは政治家として弘法大師を見ていたのではないだろうか。話は今の時代へと移る。四国に出来た道路、これから行なわれる選挙について。おじさんは、月に一度五剣山(八栗寺)にお参りに行くと言っていた。
この少し後に、今度は地元のおばさんと話をすることになる。僕が大坂峠を越えてきたというと、マムシはいなかったか、と言う。まあ、地元の言葉で、この意味だと理解するのに何度かの言葉のやり取りがあったのだが。おばさんは、以前に大坂峠を越えて逆打ちをしようとする若い女性に、車でのお接待をしたことがあったのだという。今の季節に、大坂峠を歩くのはかなり危険なことなのだと……。
第3番金泉寺へと歩く。納経するわけでもないので、寄らなければならないというわけでもないが、この日の目標でもあったので、ちゃんと行きたかったのだ。道がわからずに少しウロウロする。逆打ちの状態となるわけで、しっかりと案内があるわけでもない。地元の人に金泉寺の場所を聞いてみると、ほんのすぐ近くだった。
最初にこの金泉寺に来たことを思い起こす。正直なところ、1番から6番までの寺の記憶というのは定かではない。どれも同じような雰囲気だったようにも思える。僕の気持も緊張していたのだろう。ただ、その時、どこかで不思議に感じたことがあった。境内では、かなりの汗を流し、疲れて休んでいる人がいたのだ。第1番の霊山寺から歩いてこんなになるのだろうか、と僕は思った。逆打ちも、お礼参りというものも、その頃の僕は知らなかったのである。たぶん、この金泉寺などで、そうした歩き遍路を見ていたのだろう。4時を過ぎた夕方の金泉寺は静かだった。
この金泉寺から霊山寺までは約4キロほどの道のり。納経ができるかは別として、この日のうちに霊山寺まで行くことができたな、なんてことを考える。まあ、どこに宿泊するかという違いくらいのことだが。
この日歩いた距離は約35キロ、今回の旅では一番長い。しかも峠道を歩いてだ。短い距離に抑えていただけに、ほんとうにこんなに距離があったの、という不思議な感じがした。
JR高徳線板野駅前にある「ばんどう旅館」というところまで歩いていく。狭いけれど、その趣きのある通りが、微かに思い出されてきた。
宿に着いたのは4時半頃。部屋は2階の梅の間というところだった。普通の宿であれば、ポットが置いてあるのだが、ここでは部屋に案内されるときに、ペットボトルのお茶と氷の入ったコップを持ってきてくれた。お風呂に入り、部屋ではぐったりとしていた。
夕食は1階のお店となっているレストランのようなところでだった。ボリュームのある焼肉に、鍋もあった。遍路宿でよくある夕食とは違ったが、これもまた良かった。食べ終わったところで、フェリーとバスの時刻表など見せてもらえないかと聞いてみた。女将さんは、新聞の交通案内のところを丁寧に切り取って渡してくれた。新聞一面の半分以上のスペースにギッシリと、バスとフェリーと航空便の時刻が載っている。普段交通機関というと鉄道しか思いつかない僕には、かなり驚きの交通案内だった。
霊山寺から高野山に行く方法は、大きく2つある。ひとつは高速バスを使う方法。霊山寺の近くに高速バスの停留所があり、大阪なんばまで行き南海鉄道に乗り換えれば、比較的スムーズに行けそうだ。もうひとつの方法は徳島から和歌山へフェリーに乗る。時間的にどこらが早いのかはわからなかったが、フェリーというものにほとんど乗ったことのない僕は、この海を渡る方法に気持が向いていた。ただし、本数がバスに比べれば限られる。2時間に1便といったところか。翌日はできるだけ早めに行動しようと考える。
どうしても足の火照りは治まらなかった。夜中に起き、眠れない時間を過ごしていたように思う。
◎ 第5期 8日目:約35キロ / 2004年6月17日(木)
◆ 第3番 金泉寺
◇ 昼食:「活魚の王様 讃岐家」おまかせ定食 1344円
◇ 宿泊:ばんどう旅館 8500円
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