四国遍路日記 第5期 10日目 2004年6月19日(土)
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5時半くらいから目を覚ましていたように思う。早めに準備をして、声が掛かるのを待つ。お坊さんが来て、すぐに本堂へと移動。外国からのアベックはすぐ近くの部屋だったようで、軽く会釈して一緒に歩いていく。
どうしようかと思ったが僕はこのとき、白衣を着ていた。高野山に来る途中では脱いでいたわけだが、この朝から奥の院までは、着るべきだと自分で決めていたのだ。ところが、団体客で白衣を着ていたのはほとんどいなかったような。お遍路さんではなかったのか。
本堂でのお勤めが終ってもここでは次があった。何をやるのかよくわからなかったのだが、もうひとつ行事があるということは聞いていたのだ。玄関で靴を脱いで外へ出る。隣にある小さな堂の中へと入った。ここは毘沙門堂というところで、護摩供養というものが行なわれるのだった。狭いところで、やや窮屈な状態になって座る。30人くらいの人はいたと思う。真ん中では火が燃やされ、護摩祈祷というものが行なわれた。お経を唱えながら、その火に何かをくべたりしている。僕はすぐ後ろだったのでよくわからなかったが、それは凄い炎だった。たぶん、ここが高野山でなかったならば、禁止されてもおかしくないようなものだった。最後の方には、その熱さがこちらまで来るものだった。
たぶん、1時間くらいは経ったと思う。部屋に戻ると布団は片付けられ、朝食が用意されていた。ひとりでゆっくり食べるのもいいが、ひとりで寂しいな、という気持も無いこともなかったが。もちろん、朝食も精進料理である。じゅんさい(だと思ったが)にとろろのようなものをかけたもの、がんもどき、味噌汁に入っていたのはワカメと「ふ」だったと思う。
8時には宿坊を出て、奥の院へ歩き出した。少しは天候が崩れてくるようだったが、空は晴れ渡っていた。歩いてすぐに一の橋というところがあり、両側にお墓のある中を歩いていく。かなり距離はあったのだが、僕はこの道をゆっくりと歩いた。奥の院まで1時間以上をかけたと思う。この朝の時間だからこそ、太陽が木や墓を照らし出していたように思う。透き通った光というようなものであった。そして何より、これだけ有名な武将の墓が並んでいるということが、純粋に楽しかったのだ。このほんの数キロの狭いところに、武田信玄も明智光秀も織田信長も一緒にいるのである。仏の世界で、同窓会でもやっているのだろう、なんて思えてしまう。面白いのは、必ずしも力のあった武将が大きな墓ではないということだ。浅野家の墓などはけっこう大きかったりする。そして、歴史上の武将たちだけでなく、現代の大きな会社の創業者の墓などもあちこちにある。南海電鉄創業者の墓がやたらと大きく感じられたのは気のせいだろうか。とにかく、なんとも興味深いものだった。
そして、この通りを抜けたところの向こうにある「奥の院」の景観は素晴らしかった。御廟橋というところに注意書きがある。ここから先は写真撮影は禁止なのだそうだ。最初はなんでと思ったが、実際に近くに行くと、静寂と崇高さが守られるのであれば、仕方が無いと素直に感じることができた。
ほんとに聖なるところという雰囲気が漂っていた。ここでは白衣を着ている人が多かった。お賽銭をあげるときには、思わず100円を出してしまう。四国を歩いて、その先の高野山の奥の院、もっと出しても惜しくは無かった。正面で参拝をすませたところで、もっと奥の方に行けることに気がつく。ぐるりと寺の裏側に行き、そこに弘法大師の眠る御廟所があった。特別な中の、特別さというのだろうか。背筋を伸ばした。
御廟橋の近くにある建物に納経所があった。よくわからないままに、納経帳を差し出すと、「わかっています」という雰囲気ですらすらと納経していただいた。
やっと終った。この数日、「終った」ということが多いのだが(笑)、当然旅はまだ終らない。高野山から家まですぐに帰れるわけではない。とにかく、長い間、目的としていた行事がやっと終ったという感じだった。
すぐ隣には広い休憩場となっている建物があったので、少し休んだ。白衣を脱ぎ、若干の荷物の入れ替えをする。途中から荷物が増え、かなりの重さになっていた(ちなみに自宅に帰ってからリュックの重さを量ったところ8.4キロになっていた)。入れ替えたところで重さは変わらないが、もう使わないであろうものは下へ方へと入れる。
これから後、特に予定は決めていない。まずは、高野山という場所をあちこち歩き、ひと通りの有名なところには行ってみようと思っていた。
歩いてきた道を引き返す。朝よりは、歩いている人が多い。一の橋を超え、メインとなる通りを歩いていく。どこに行っていいものかよくわからないのだが、とりあえずは「総本山」と名前の付く金剛峯寺へと行く。
大きな建物だった。落ち着いた雰囲気がいい。お寺というと、寄付の関係になると思うが、人の名前やらごちゃごちゃとした文字が多かったりしている。しかし、ここはさすがに総本山であり、余計なものはなく、素直に寺の雰囲気を感じることができた。
いろいろな角度から寺を眺めていたのだが、中に入れることがわかる。靴を脱ぎ、拝観料を支払い、ゆっくりとその歴史ある廊下を歩いていく。古い建物と、その庭の景色を眺めるだけでも楽しいものだった。奥にあった部屋では無料のお茶のサービスがあった。
迷路のようにも思える中を矢印に従ってあちこち歩いていく。面白かったのは最後のところだった。台所となっていた場所で、鍋釜などが置かれているのだった。
金剛峯寺を出てからは、大門へと行く。遠くの景気を眺め、改めてこの場所が山の中にあることを認識する。そして、根本大塔、金堂などのある場所へ。ここでは団体のツアーがいくつか来ていて、僕もしばらくその案内を聞いたりしていた。
それにしても不思議なものだと思う。もう先の予定の無い僕には、ゆっくりと見るという時間がある。けれど、四国で歩いている途中に、やや急ぎながら見ていた景色の感激と比べると、何かが違うような気がするのだ。いくつか見た寺には見るべきものがあり、それは満足させてくれるものではあったが。
時間は12時を過ぎていた。南海食堂という店に入り、そば定食を食べる。これから先、どうしようかと漠然と考える。せっかく遠出をしてきたわけで、高野山の後、2、3日関西で遊んで行こうと思っていたのだ。簡単に、というわけではなかったが、なんとか携帯のメールは使えるようになっていた。
とりあえず、大阪に移動することにしよう。この高野山からどこかへ移動するのは南海電車で大阪難波に移動するのが、もっともスタンダードだ。
店を出て、高野山の駅方向へ歩いていく。建物が少なくいくらか静かになったこの辺りの景色はいい雰囲気だった。しかし、それだけに電信柱が馴染まないように思えてしまったが。徳川家零台というところに拝観料を払って入ったが、歴史的な価値はあるのだろうけど、少しばかり寂しいところだった。女人堂まで歩いたところでバスに乗って高野山駅へと行く。
1時40分過ぎにケーブルカーは出発した。隣に座ったおじさんが、「歩いてまわられてですか」と声を掛けてくれた。もちろん、四国遍路を歩いて、という意味だ。この人も区切り打ちで四国を歩いている途中なのだという。1番から歩いているということではなく、香川県の方をまずは歩いたとのこと。「おへんろ交流センター」の話になったのだが、彼の帽子にはそこでもらったバッチが付けられていた。
極楽橋駅から難波駅には急行電車に乗った。座席が全て横になっている普通の通勤用だ。大阪に近づいていくにつれて、高野山とは関係のない普通の人達が乗り込んでくる。少しずつ、違和感が僕の中で大きくなっていた。難波駅に着いて、僕はどこに行っていいかわからずにうろうろしていた。とりあえず、宿を決めようと案内所のようなところを探したのだ。ここは四国でも高野山でもない。それは大変な作業のように思えてきた。地下の通路を歩くのがだんだん苦痛になってきた。大阪という街を初めて歩くということも大きかったのかもしれない。東京とは違った流れのエスカレーターで戸惑っていた。女性の服装は派手で、何もかもが数時間前までの世界と違っている。僕は急激に疲れてきた。
歩きついたのはJR難波駅、そのビルには「なんばOCATバスターミナル」があった。受付で山形行きの高速バスについて聞いてみると、まだ座席はあるという。僕はチケットを買った。
たぶん、ひとつの旅にはひとつのテーマで十分なのだろう。僕の今回の旅は高野山で終った。高野山から難波までの南海電車での違和感は、何度か味わった四国を出て、東京へ帰る新幹線で体験したものと似ているものだった。
出発の午後8時12分までは時間がある。このビルの中にある書店に行った。僕の住んでいるところでは売られていない雑誌と串間洋さんの『四国遍路のはじめ方』(明日香出版社)を買う。これまで僕は「先の風景を見たくない」という理由から、ほとんど四国遍路関係の本を読むことはなかった。最初には何冊か読んだのもあったが、ずっと「読まない」と決めていたのだ。その決め事はもう必要なくなった。「掬水へんろ館」の館主である彼の本は前から欲しいと思っていたもので、最初に読む本としては最適だと思ったのだ。
同じビルの中で夕食を食べる。何を食べたいかという前に、冷たいワインを飲みたかった。アルコールが飲みたかったのだが、僕はビールは飲まないことにしている。ちびりちびりではなく、できるだけゴクリと飲みたい。そこでワインが飲みたかった。区切り打ちの間中はずっと禁酒を貫いてきたわけで、終ったことを自分自身で祝いたいという意味もあった。
そんなことで、ひとりでイタリアンの店に入る。菅笠も金剛杖も袋に入れたが、リックなどの荷物は重い。しかも僕の表情は疲れきっている。そんなに混んでもいないようだったので、ビルの5階の「Enchante」という店でセットメニューを注文する。グラスで注文したのだが祝杯のワインはさすがに美味しく、もう一杯飲む。とっても上品なパスタを食べたことによっても、違う世界に来たようで可笑しかった。
地下にあるコンビニで、ペットボトルの飲み物、おにぎり、そして小さなボトルのウヰスキーを買う。これまでなかなか眠ることができなかったバスなわけで、アルコールのチカラを借りて寝る方法を試そうと思ったのだ。
出発時刻になり、バスに乗り込む。荷物を預けようとすると、車内に持っていって隣の席に置いていいと言われる。土曜日の夜で比較的混むのではないかと思ったのだが、かなりガラガラの状態だった。この後の京都駅で若干の乗客が乗り込んできたが、3分の1も埋まっていなかったような気がする。
バスから見える大阪の街は大雨だった。台風が近づいてきて、この次の日には関西方面において交通機関が動かなくなったりもした。後からこうした交通事情を考えると、この日僕が帰ることにしたのは大正解だった。
最近の夜行バスは2階建てになっているのが多いのだが、このバスは1階建ての3列になっているものだった。しかし、乗り心地は僕がこれまで東京・四国間で利用したものと比べて数段上だった。シートの造りがちょっと違う。かなりゆったりできる。そして何よりも良かったのは、枕があったことだ。首を固定することができる。これはほんとに楽なことだった。
おにぎりを食べ、ウヰスキーをちびりちびりやりながら、外の景色を眺めていた。京都はライトアップされているような街の雰囲気だった。本当は京都のお寺見物でもしようと思っていたのだ。けれど、四国の山の中の寺を見た後で、観光地を歩くのは辛いものだと思う気持になってきていた。
相変わらずバスの中では十分に眠ることはできなかった。けれど、枕が良かったのかアルコールが良かったのか、苦痛でどうしようもないということはなかった。夜行バスにウヰスキーというのは、いい組み合わせだったと思う。
自宅まで帰るのにはちょっと苦労したが、朝の9時頃には着くことができた。やっと長い旅が終わりとなった。
◎ 第5期 10日目:0キロ / 2004年6月19日(土)
◆ 高野山奥の院
◇ バス 女人堂−高野山 210円
◇ 南海鉄道 高野山−難波 1230円
◇ 近鉄バス 難波−山形 12000円
◇ 自宅まで JR 320円 バス 240円
◇ 昼食:「南海食堂」そば定食 820円
◇ 夕食:「Enchante OCAT店」パスタのセットメニュー+グラスワイン2 3000円
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