四国遍路日記 第3期 7日目 2002年10月24日(木)
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朝は6時半に起きる。食事は7時から1階のカフェのようなスペースで取る。20人くらいの食事がテーブルに用意されていたようだった。大きなホテルなのに、あまりにも人の気配が感じられず、いったいどのくらいの人が泊まっていたのか不安だった。朝食を食べている人の中には、スーツを着ている人もいた。
チャックアウトして外へ出る。天気はまだどんよりとしている。少し寒い。昨日弁当を買ったコンビニで昼食にしようとおにぎりを買う。地図を見る限り、お昼の時間には食事のできる店はないようだった。特に山道を歩くわけで、食べ物を持っているというのは、安心でもあった。
地図を見た限りでは真っ直ぐ歩いて行けば、峠の入口まで行けるものだと思っていたのだが、そうでもなかった。国道を少し歩いたところで、道の間違いに気がつき、引き返す。ウロウロしてガソリンスタンドで道を聞く。地図を手に持って現在地とどのように歩いていけばいいのが僕の知りたいところなのだが、この人はちょっと困った表情をしていた。なんでも、この地図は古いのだという。何度も遍路の人に同じような質問をされていた様子だった。地図とは違った道になるが、遍路路に入る標識のあるところまでの道をわかりやすく教えてもらう。正直なところ、地図の案内とは違うわけで、歩いていて不安はないわけでもない。不安な気持ちと、なるようにしかならないという開き直りとが絡み合っている。
ふたつ目の信号のところに、教えてもらった建物があり、右折して真っ直ぐ歩いて行くと確かに遍路の道しるべがあった。景色は山のふもとのあぜ道。少しホッとする。
ホテルを出てからおおよそ1時間が過ぎた頃、松尾峠の入口に着いた。ここは江戸時代からの峠で関所もあったところなのだという。人しか通ることのできない小さな道ではあるけれど、遠い昔の時代に同じ道を歩く人がいたのかと思うと、少しばかり感慨深いものがある。
少し離れたところから見る山の景色と、こうやって山の中の道を歩いて見える景色と、どうしてこんなにも違うのかと思う。山道は場所によってはとても薄暗い。ときどき陽の光が入り、遠くの景色が見えたりもする。けれど、自分が緑の山の中を歩いているという感じは不思議としないのである。登り道は辛くはあったが、歩けないというほどではなかった。ときどき立ち止まり汗を拭き、しばしの休憩を取る。けれど、不思議なことに歩き出したところに、木製のベンチがあったりする。何度か同じようなことを繰り返す。
突然に視界が広がり、遠くの方に海が見えてきた。霧がかかったようで、青い海はないのだが、その広さには圧倒される。
頂上という場所に来ると、けっこう年配の遍路の人がひとりおにぎりを食べていた。朝ご飯ということだろうか。少し話をする。この先に城跡のようなところがあり、そこに行って写真を撮ると言っていた。この場所は休憩所のようになっていて、僕は座って少し休んだ。全身は汗でびっしょりだった。
下り道は楽かとういとそうでもない。負担の掛かる箇所が違うのだろう。どこを歩いていても、今が一番大変だという気持ちになってしまうものなのかもしれないが。途中で、愛媛県に入ったという表示のようなものがあった。道の雰囲気も高知県のときとは少し違うような気もしてきた。空も晴れてきたようだ。青い空が近くなってきている。陽の光も暖かになってきた。
峠を降りて、田畑の中の道路を歩いて行く。ぽつりぽつりと民家があったり、小川があったり、犬と出くわしたりする。小さな町の中の通りを歩いたりもしたのだが、のどか、という表現がぴったりした良い雰囲気のところだった。小さな交差点のところだった。右の角には酒屋さんがあったと思う。僕がその交差点で立ち止まったとき、脇を通ったおばさんは笑顔で、さりげなく、「真っ直ぐでいいですからね」と声を掛けてくれた。ほんの一瞬の出来事で、僕が何か返事をしようとしたときには、もう彼女は通り過ぎていた。地図を見てこの町の名前を確認すると、一本松町というところだった。
ちょっとした山の中のような通りを歩く。田畑と電線の景色の中を歩く。
時間はお昼の12時くらいだった。いつの間にか道は市街地へと入っていった。ここから数キロほどで第40番の観自在寺となる。ちょっとした休憩場所でもあれば、昼食を取ったわけだが、交通量の多い車道を歩くばかりで、休むようなところはなく結果として歩き続けることとなった。もう少しだとうと思いながら、なかなか着かない。
観自在寺はちょっとわかりにくかった。道路を右に曲がってすぐなのだが、どこから曲がっていいのか、微妙にわからなかった。白衣を着ている人が何人か歩いていて道を聞いていた。僕も続いて行った。
街の中にあるこじんまりとしたお寺という雰囲気だろうか。学業成就などに良いという「宝聚殿文珠堂」というところもあり、こちらにもお賽銭を入れる。すぐまわりは民家などがあるというのに、静かで趣きのある場所だった。午後の1時半くらい、僕はベンチに座って、朝勝ったおにぎりを食べてちょっと遅めの昼食とした。
この日の宿はここから10キロほど先となる。ゆっくり歩いても5時までに十分に宿に入ることはできそう。団体客なども入れるような宿だったので、お風呂も大きいだろう。ゆっくりと休めるだろう。旅館らしい魚いっぱいの夕食を思い浮かべる。
道は市街地の道路から離れ、左手の方には海が見えてくる。入り江のようになっていて、広さは感じないが、太陽の光が海にきれいに反射して少し眩しいくらいだった。宝石のよう、などという例えは陳腐なのだろうが、ついついこのように例えたくなるような景色の中を歩いた。
道は山側に入り、もう一度海が見えてきた。そして小船が多く浮かぶ先に小さな港が見える。その港のある街の中にこの日の宿「旭屋旅館」はあった。時間は4時半くらいだった。入口は旅館というよりも、割烹料理屋みたいになっている。中に入ると、主人と女将さんと(夫婦なのだろう)2人で大きな水槽に水を運んでいるところだった。ときどき水が大きく跳ねていた。中には威勢のいい魚がいるのだろう。潮の香りがしていた。まずは、この店のテーブルに座りお茶を出してもらい宿帳を書く。僕の住所を見て女将さんが話をしてくる。前に行ったことがあるということだった。東京の話をいくらかする。
部屋はとてもきれいなところだった。窓からは港の様子がちらりと見える。少し横になって休んだ。こんな風に、畳の上に、身体を横たえるということはなんという幸せなことなのだろう。
この部屋にはノートが置かれてあった。「旅の思い出にらくがき帳」と表紙にはマジックで書かれている。泊まった人の感想などが自由に書きこまれている。この宿のことがとても良く書かれていた。中にはこれまでの遍路宿で一番良かったというのもあった。確かに、落ち着ける部屋と、ゆったり入れるお風呂と、新鮮な料理と。この3つが揃うということはなかなか難しい。ノートには、どうして遍路をはじめて、今どのような状況か、などということも書かれていた。女性2人で旅をしている、というのもあった。
この宿でもうひとつ嬉しいポイントがあった。それはトイレである。遍路宿ではトイレが男女共用のようなところも多いのだが、ここはちゃんと別でしかも広い。洋式のトイレがある。疲れた脚にとっては、心から嬉しいのである。しかもこの宿はウォシュレットだった(笑)。
少し休んだところでお風呂に入る。お風呂はこの宿の上の方にあり、湯船からの眺めもとてもよかった。一番風呂にひとりで、ゆっくりとお湯につかっていた。上がるのがもったいないような気持ちになって、ちょっと疲れるくらいに長く入っていた。
夕食は1階のお店のところでとる。いくつかの部屋がありながら、泊まってたのは僕ともうひとりの歩き遍路の人だけのよう。この日、松尾峠で会った人だった。さすがに新鮮な海の料理がずらりと並んでいた。すぐ近くに漁港のある宿で食べる刺身というのは、気持ちの面でもちょっと違っていたのかもしれない。刺身と白いご飯。しかも、一日中汗を流した後でお風呂に入った後。四国遍路の大きな楽しみのひとついって良いだろう。
食事が終わってから、翌日の宿の予約の電話を入れる。宿の女将さんにどの辺がいいか聞いてみる。やはり僕と同じように聞かれることが多いようで、ここから先、宇和島周辺の宿の電話の書かれたものが用意されていた。残念ながら女将さんお薦めの宿は閉めてしまったのだという。日本風の旅館というのは数が減り、ビジネスホテルが多くなっているようである。宇和島には両方の宿がいくつもあった。どちらにしようか少し悩む。日本風の旅館は、お風呂などかなり違いが大きかったりもする。その点、ビジネスホテルの方はどこもほとんど同じようなものだ。今回の旅で泊まるのは残り2晩。日本風の宿の方が、旅らしい体験などがあるかもしれないと思い、こちらの方を探し予約の電話を入れた。
まだ寝るまでには時間が早い。眠い気持ちもなくはないが、テレビを見てぼんやりと過ごした。衛星放送が入っていて、サッカーの国際試合が放送されていて、それを見ていた。
◎ 第3期 7日目:約32.5キロ / 2002年10月24日(木)
◆ 第40番 観自在寺
◇ 昼食:ヤマザキショップ宿毛店 336円
◇ 宿泊:旭屋旅館
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